1931年-1936年:第二共和国期
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「カタルーニャ共和主義左翼」の記事における「1931年-1936年:第二共和国期」の解説
ERCはジャウマ・アイグアデー(スペイン語版)によって、バルセロナのサンツ地区で1931年3月17日から20日にかけて開催されたカタルーニャ左翼会議においてリュイス・クンパンチのカタルーニャ共和党(スペイン語版)、フランセスク・マシアー(スペイン語版)のアスタート・カタラー(スペイン語版)とジュアン・リュイー(スペイン語版)の「ルピニオー」(スペイン語版)グループ(同名の研究会が前身)の統合の結果設立された。マシアーの指揮のもと同年の自治体選挙(スペイン語版)に勝利し、イベリア連邦内でのカタルーニャ共和国を宣言した。スペイン第二共和国暫定政府は、結果的にカタルーニャ自治憲章 (1932年)(スペイン語版)として結実することになるこの自治の動きに起因する政治危機に直面することとなった。1934年リュイス・クンパンチは急進共和党=CEDA政府に対する労働者蜂起のアストゥリアス10月革命(スペイン語版)へと向かう労働運動の緊迫した状況に乗じて「スペイン連邦共和国」内のカタルーニャ国を宣言した。このことは共和国の合法性に疑問を呈し、また政府の武力行使に挑戦するものであった。政府は分離主義者たちの意図を挫くために戦争状態を宣言し、軍部の介入を命令した。クンパンチは逮捕され、投獄され、自治政府の企ては失敗に帰した。この期間ERCはアスカモッツ(スペイン語版)という準軍事組織を有していた。1936年アスケーラは人民戦線に参加、2月の総選挙に勝利、クンパンチはカタルーニャ自治政府首班に就任した。 この第一期の間にERCは10万を超える活動家を得たが、カタルーニャでは無政府主義(反国家的、反国家主義的な)が支配的となっていた。
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