1931年の富農の「特別定住地」への追放
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「ソビエト連邦における強制移送」および「グラーグ」を参照 1931年3月18日、2000人の富農がロストィを出発した。同年5月26日、富農の家族3500人がウクライナのザポリージア州のヤンツェノヴォを出発し、6月3日にシベリアに到着したが、輸送中に15-20%、特に子供が死亡した。 1931年5月、西シベリア地区委員会は、3月に強制移住させられてきたクラークはほとんど財産を持っていないと報告しており、この年には共産党も「富農」には該当しない人々が間違えて「富農」とされていることや、「富農」の発見が難しいことを党機関紙プラウダは認めざるをえなかったが、その原因を活動分子が中農が急に富裕になることを見抜けなかったためであると説明した。 ウクライナの追放された人々は、途中のアルハンゲリスクやヴォーログダでおろされることもあった。接収された教会が収容所となったが、助けを求めて街をさまよっても、住民は助けることを禁止されており、誰も助ける者はいなかった。駅の近くの公園などで毎朝死人が出た。 シベリアに到着しても、雪のなかに放置され、力のある者は眠らずに小屋を立てた。シベリア中部のクラスノヤルスク近郊の収容所には、建物がなく、有刺鉄線がはられ、見張りがいただけだったが、4000人が収容され、半数が二ヶ月で死んだ。1931年9月にシベリアの収容所に送られた4800人は、そのうち2500人が翌1932年春までに死亡した。シベリア北部のナルィムには1932年はじめ、富農19万6000人が追放されてきたと党員の記録にある。 こうした「特別定住地」は、ロシア北部のアルハンゲリスク、ヴォーログダ、コートラス周辺にあり、とくにグラゾヴェツとアルハンゲリスクとの中間地帯には巨大な収容所があり、200万人のウクライナ人が収容され、そのうち半分は子供だった。公式記録でも、30年2月時点でロシア北部に追放されたのは7万戸に達し、およそ40万人にのぼった。そのあとも増え続け、1926-1939年までにカレリア - ムルマンスクの人口は32万5000人、北東部で47万8000人、ヴャートカ(キーロフ)では53万6000人増えた。 北部以外では、ウラル山脈南東部のマグニトゴルスクでは5万の労働者のうち18000人が追放された富農だった。
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