第9の哨戒 1945年5月 - 7月・バーニー作戦
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「ボーフィン (潜水艦)」の記事における「第9の哨戒 1945年5月 - 7月・バーニー作戦」の解説
5月29日、ボーフィンは9回目の哨戒でバーニー作戦に参加して日本海に向かった。このバーニー作戦は、この時点の日本に残されたほぼ唯一の重要航路に打撃を与えるものであり、対馬海峡の機雷原突破と日本海を悠然と航行する日本船は、目標の減少に嘆いていた潜水艦部隊にとっては絶好のスリルであり獲物であった。この作戦には9隻の潜水艦が投入され「ヘルキャッツ」 Hellcats と命名された。各潜水艦は三群に分けられ、シードッグ (USS Sea Dog, SS-401) のアール・T・ハイデマン(アナポリス1932年組)が総司令となった。ボーフィンはフライングフィッシュ (USS Flying Fish, SS-229) 、ティノサ (USS Tinosa, SS-283) と共にウルフパック「リッサーズ・ボブキャッツ」Risser's Bobcats を組み、第一陣「ハイデマンズ・ヘップキャッツ」 Hydeman's Hep Cats が5月27日に出撃してから48時間後に出航し、対馬海峡に進出した。 リレー式に対馬海峡を突破したシードッグ以下の潜水艦は三群それぞれの担当海域に向かい、6月9日日の出時の攻撃開始を待った。「リッサーズ・ボブキャッツ」は朝鮮半島東岸に進出した。6月11日、ボーフィンは元山沖で第三信洋丸(大光商船、1,899トン)を発見し、魚雷を4本発射して命中させて撃沈した。2日後の6月13日には、興南沖で明浦丸(大東商船、887トン)を撃沈した。 ボーフィンは僚艦とともに、6月24日夜に宗谷海峡西側に到着。6月19日に富山湾で討ち取られたボーンフィッシュ (USS Bonefish, SS-223) 以外の、シードッグ以下の各潜水艦は翌25日正午に濃霧の中を二列縦陣、浮上航行で海峡を通過し、オホーツク海に入った。7月4日のアメリカ独立記念日、ボーフィンは37日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。 この後、ボーフィンは8月上旬に10回目の哨戒の準備のためマリアナ諸島に進出すべく真珠湾を出航したが、途中で日本の降伏を迎えたため反転して真珠湾に戻った。8月29日に真珠湾を離れて東海岸へ向かい、9月21日にニューヨーク州のトンプキンズヴィル(英語版)に到着した。
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第9の哨戒 1945年5月 - 7月・バーニー作戦
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「タニー (潜水艦)」の記事における「第9の哨戒 1945年5月 - 7月・バーニー作戦」の解説
5月28日、タニーは9回目の哨戒でバーニー作戦に参加して日本海に向かった。このバーニー作戦は、この時点の日本に残されたほぼ唯一の重要航路に打撃を与えるものであり、対馬海峡の機雷原突破と日本海を悠然と航行する日本船は、目標の減少に嘆いていた潜水艦部隊にとっては絶好のスリルであり獲物であった。この作戦には9隻の潜水艦が投入され "Hellcats" (ヘルキャッツ) と命名された。各潜水艦は三群に分けられ、シードッグ (USS Sea Dog, SS-401) のアール・T・ハイデマン少佐(アナポリス1932年組)が総司令となった。タニーはボーンフィッシュ (USS Bonefish, SS-223) およびスケート (USS Skate, SS-305) と共にウルフパック Pierce's Polecats (ピアースズ・ポールキャッツ) を組み、第一陣 Hydeman's Hep Cats (ハイデマンズ・ヘップキャッツ)が5月27日に出撃してから24時間後に出航し、対馬海峡に進出した。6月2日に南西諸島を通過し、6月5日に対馬西水道の機雷原をも易々と乗り越えた。 リレー式に対馬海峡を突破したシードッグ以下の潜水艦は三群それぞれの担当海域に向かい、6月9日日の出時の攻撃開始を待った。「ピアースズ・ポールキャッツ」は能登半島以西の沿岸部に進出した。作戦初日の9日夜、タニーは北緯36度22分 東経134度19分 / 北緯36.367度 東経134.317度 / 36.367; 134.317の若狭湾近海で2,000トン級輸送船に向けて魚雷を3本発射したが、1本が命中したものの不発に終わった。タニーは沿岸部の港をしらみつぶしに偵察し、6月12日の真夜中には恵曇港まで7.3キロの地点に接近して魚雷を発射しようとしたが、発射しても防波堤に命中するだけだと判断され偵察のみにとどめた。また、十六島湾湾口から5キロの地点に接近したが、日本側のサーチライトがタニーのいるあたりを照らしたため、タニーはあっさりとその場を離脱した。6月16日、タニーは北緯38度40分 東経135度24分 / 北緯38.667度 東経135.400度 / 38.667; 135.400の丹後半島沖合いでボーンフィッシュと会合。ボーンフィッシュから戦果報告を受けた。また、日本人の生存者が乗っている多数のいかだを発見した。2日後に北緯38度15分 東経136度24分 / 北緯38.250度 東経136.400度 / 38.250; 136.400の地点で再びボーンフィッシュと会合し、ボーンフィッシュに富山湾潜入の許可を与え、ボーンフィッシュはタニーと別れた。これが、アメリカ側がボーンフィッシュを見た最後であった。この前後に対潜攻撃を受けたがうまく避けた。6月19日には北緯36度15分 東経136度03分 / 北緯36.250度 東経136.050度 / 36.250; 136.050の地点で4,000トン級輸送船を発見して魚雷を4本発射したが、浅瀬でうまく攻撃できず結局取り逃がした。結局、バーニー作戦参加潜水艦中、雑魚すら得られなかったのはタニーだけであった。6月23日、利尻島沖で集結した潜水艦の中にボーンフィッシュがいないことに気づき、タニーは先任艦の務めとして幾度と無くボーンフィッシュとの交信を試みたが徒労に終わった。ボーンフィッシュは6月19日に富山湾で撃沈されていた。7月6日、タニーは49日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。 終戦を真珠湾で迎えたタニーは西海岸へ向かい、1945年12月13日に退役した。タニーは第19艦隊メア・アイランド・グループで保管される。
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