立川バスとして再出発
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1947年に立川自動車運輸は現在の立川バスに社名を変更し、再スタートをきった。開業以降、ほとんど路線の新設・改変もなかった立川自動車運輸だったが、この年に奥多摩振興(現在の西東京バス青梅営業所が相当)より路線を買収することで、路線の拡充が始まることとなる。そのときの区間は、国分寺 - 拝島、拝島 - 小荷田等の4区間であり、これにより砂川や国分寺なども営業エリアとすることとなった。 1951年(昭和26年)5月からは貸切バス事業を開始。立川バスが所有する観光バスの車体に『サザエさん』の登場人物を描き「サザエさん観光」として運行していたが、許可を得ていなかったとして1971年に作者の長谷川町子から使用差し止め要求があり、裁判の結果、立川バスは長谷川へ損害賠償を支払う結果となった(サザエさんバス事件)。 また1951年には川崎市より川崎市北部地区の路線を整備するため、溝口営業所の路線を買収したいとの要請があった。この交渉がまとまり、翌1952年に同営業所は川崎市交通部(当時。現:川崎市交通局)に譲渡された。譲渡された路線は以下の4線である。 溝ノ口駅 - 蔵敷(ぞうしき)間(現・柿生線) 溝ノ口駅 - 調布間(現・久地線・西菅線。実際は矢ノ口まで。) 溝ノ口駅 - 成城学園前駅間(実際は運行されず。) 登戸 - 生田間(登戸線。生田は生田駅周辺ではなく、現在の多摩警察署前周辺。) 川崎市は1952年8月1日に蔵敷線(溝ノ口駅-蔵敷)・矢ノ口線(溝ノ口駅-矢ノ口)・登戸線(溝ノ口駅-登戸)の運行を開始した(川崎市外の矢ノ口-調布間と高津-成城学園前駅間については、川崎市が運行するのは不適当だとして運輸大臣が譲渡を認可しなかった)。 1954年9月に小田急電鉄の傘下となり、小田急グループの1社となった。これを機に、立川バスはその営業域の拡充をさらに押し進めることとなった。しかし、昭和30年代には多摩地域でのエリア分けが一段落しつつあったので、新規開業路線は他社との相互乗り入れという形で進められた。その例として、五王自動車(現・西東京バス)との相互乗り入れによる立川駅北口 - 福生 - 五日市線等が挙げられる。一時期は埼玉県所沢市北野地区へも路線を延ばしていた。 1960年代後半から1970年代にかけては長距離路線の整理が行われるようになる。立川バスに限らず都内のバス路線は、それまでエリア拡大のために他事業者との相互乗り入れ路線を多数持っていたが、交通渋滞やそれに伴う乗客の減少などによりメリットよりデメリットが多くなってきた。このことから、各事業者とも長距離路線を短縮し、自社のエリア内のみを走る路線にまとめていくようになった。同時期には鉄道の高速化により、鉄道と完全に並行する路線は分割され、隣接する駅間を補完する路線に転化するか廃止する方向へ向かっていった。 一方で高度経済成長を背景に、1960年代には東京都心のベッドタウンとして多摩地域には大規模な団地造成が行われ、立川バスでも団地輸送路線が次々に新設された。中でも1966年4月に入居開始した都営村山団地と立川駅を結ぶ村山団地線は立川バスのドル箱路線となった。路線新設やバスの台数増加に伴い、1963年には拝島営業所を新設。また本社併設の高松町営業所と芋窪街道沿いにあった砂川営業所が手狭となったため、1966年に上水営業所を新設した。 1976年に立川基地が返還され、立川駅北西部の基地跡地に道路や施設が整備された。まず、高松町一丁目から基地跡沿いの南北に道路が整備された。その後、曙町一丁目から泉町まで滑走路を転用した道路が新造され、その道路沿いに防災センターが新設された。これに伴い、立川バスも箱根ヶ崎線の一部が新道経由となり、砂川循環線(現在は廃止)・防災循環線などが新設された。その後、立川消防署・立川警察署・国立立川病院の移転に伴い、立川消防署循環線なども新設され、さらにルートの一部も変更された。 1990年4月より深夜急行バス新宿線(新宿駅 - 立川駅)を運行開始、1992年4月には渋谷まで延伸した(渋谷駅 - 新宿駅 - 立川駅)。しかし深夜急行バスは1997年3月に廃止されている。 1991年には高速バス事業に参入し、3月より空港連絡バス成田空港線を運行開始。翌4月には夜行高速バス神戸線「シャルム号」を運行開始した(担当は拝島営業所)。これは立川バスでは初にして唯一の夜行高速バスであった。その後 「シャルム号」は2008年11月16日にシティバス立川へ移管されたが、翌2009年5月13日の出発便を最後に撤退し、夜行高速バスの運行はなくなった。 1990年代の地方博覧会ブームを受け、1993年には「TAMAらいふ21」が昭和記念公園をメイン会場として開催され、立川基地跡の北西部(窪方停留所付近)に簡単な遊園地が作られた。立川バスも会期中には立川駅北口 - TAMAらいふ21会場を結ぶ臨時バスを運行した。
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