秋田県男鹿半島寒風山とは? わかりやすく解説

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秋田県男鹿半島寒風山

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/22 09:47 UTC 版)

誓の御柱」の記事における「秋田県男鹿半島寒風山」の解説

秋田県寒風山誓の御柱は、男鹿琴湖会が1930年夏季大学10周年記念して五箇条の御誓文という明治新政基本男鹿文化の道標にしようと寒風山山頂建立した当時日本深刻な不況に陥り社会不安広がっていたので「明治の頃の初心思い出そう」との呼び掛け込めた御柱建設した男鹿琴湖会(おがきんこかい)は、男鹿住民地元学生中心に結成していた親睦団体であった1921年以降毎年8月夏季大学というイベント開催し東京帝国大学東北帝国大学東京高等師範学校などから教授名士数名招聘し、青年対象数日間講演会開催していた。男鹿地域青年教育一大イベントであった副会長伊東晃璋が推進していた。 伊東晃璋(いとうこうしょう1889年-1944年)は寺の住職の家に生まれ地元小学校校長歴任していた。男鹿琴湖会の副会長になり、同会を実質的に取り仕切り、同会の夏季大学をも推進していた。第9回夏季大学講師選定過程二荒芳德出会った夏季大学二荒芳德招聘したいと考え1929年6月頃に二荒邸を訪問したのである。二荒は都合がつかなかったが、代わりに同門渡邊八郎紹介してくれた。彼が来るのを二荒邸で待つ間、二荒と語り合って意気投合した同年8月第9回夏季大学講師渡邊八郎らを交えて来年10周年記念事業について会談したところ、誓の御柱建設する案が出た男鹿琴湖会の幹部数回相談した結果御柱建設することに決まった1930年1月建設正式に公表した当初二荒芳德第10回夏季大学講師として男鹿に来たときに除幕式を行う予定であったが、性急すぎたので第10回夏季大学では地鎮祭のみを行った伊東エネルギッシュであるがクセ強く悪い噂立てられた。「伊東授業休んで建設運動して回っている」とか「御柱菊の御紋偽物だ」とか「御柱御文字は閑院宮様の書かれたものでなく、本物伊東持っている」といった噂である。伊東気にせず建設邁進した。 建設に際して男鹿琴湖会の役員近隣の町回って寄付募った小中学校各種学校婦人会などの団体企業のほか、遠く中国樺太からも寄付金があった。男鹿男女青年団小学校主婦会の人々勤労奉仕のほか、趣旨賛同した秋田県内外多く人々労働奉仕もあった。石材には寒風山で採れた輝石安山岩用いた採掘地粗削りした後、小学生青年団員・消防組員・主婦会などが協力し山頂まで距離約1.7km・高低差190m重さ1,060貫(3,975kg)の石材人力引き上げたモデル琵琶湖多景島に立つ青銅製の御柱で、寒風山御柱もその名を採り、その造り学んだ船川港町在住石工職人制作した起工から約3か月完成し1930年10月24日除幕式挙行した。 戦後1964年8月1日秋田県観光開発に伴い移設された。寒風山頂上回転展望台建設することになったので御柱頂上より一段低い現在地移したのである1984年9月23日修復完了した2010年4月1日男鹿琴湖会から男鹿市教育委員会寄付された。2014年3月20日男鹿市有形文化財指定された。

※この「秋田県男鹿半島寒風山」の解説は、「誓の御柱」の解説の一部です。
「秋田県男鹿半島寒風山」を含む「誓の御柱」の記事については、「誓の御柱」の概要を参照ください。

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