秋田県男鹿半島寒風山
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秋田県寒風山の誓の御柱は、男鹿琴湖会が1930年夏季大学10周年を記念して、五箇条の御誓文という明治新政の基本を男鹿文化の道標にしようと寒風山の山頂に建立した。当時の日本は深刻な不況に陥り社会不安が広がっていたので「明治の頃の初心を思い出そう」との呼び掛けを込めた。 御柱を建設した男鹿琴湖会(おがきんこかい)は、男鹿の住民が地元の学生を中心に結成していた親睦団体であった。1921年以降毎年8月に夏季大学というイベントを開催し、東京帝国大学や東北帝国大学、東京高等師範学校などから教授や名士を数名招聘し、青年を対象に数日間講演会を開催していた。男鹿地域の青年教育の一大イベントであった。副会長の伊東晃璋が推進していた。 伊東晃璋(いとうこうしょう、1889年-1944年)は寺の住職の家に生まれ、地元の小学校で校長を歴任していた。男鹿琴湖会の副会長になり、同会を実質的に取り仕切り、同会の夏季大学をも推進していた。第9回夏季大学の講師選定の過程で二荒芳德と出会った。夏季大学に二荒芳德を招聘したいと考え、1929年6月頃に二荒邸を訪問したのである。二荒は都合がつかなかったが、代わりに同門の渡邊八郎を紹介してくれた。彼が来るのを二荒邸で待つ間、二荒と語り合って意気投合した。同年8月、第9回夏季大学で講師の渡邊八郎らを交えて来年の10周年記念事業について会談したところ、誓の御柱を建設する案が出た。男鹿琴湖会の幹部で数回相談した結果、御柱を建設することに決まった。1930年1月に建設を正式に公表した。当初は二荒芳德が第10回夏季大学の講師として男鹿に来たときに除幕式を行う予定であったが、性急すぎたので第10回夏季大学では地鎮祭のみを行った。伊東はエネルギッシュであるがクセも強く、悪い噂を立てられた。「伊東は授業を休んで建設運動して回っている」とか「御柱の菊の御紋は偽物だ」とか「御柱の御文字は閑院宮様の書かれたものでなく、本物は伊東が持っている」といった噂である。伊東は気にせず建設に邁進した。 建設に際して男鹿琴湖会の役員が近隣の町村を回って寄付を募った。小中学校や各種学校、婦人会などの団体、企業のほか、遠く中国や樺太からも寄付金があった。男鹿の男女青年団や小学校、主婦会の人々の勤労奉仕のほか、趣旨に賛同した秋田県内外の多くの人々の労働奉仕もあった。石材には寒風山で採れた輝石安山岩を用いた。採掘地で粗削りした後、小学生・青年団員・消防組員・主婦会などが協力し、山頂まで距離約1.7km・高低差190m、重さ1,060貫(3,975kg)の石材を人力で引き上げた。モデルは琵琶湖多景島に立つ青銅製の御柱で、寒風山の御柱もその名を採り、その造りを学んだ。船川港町在住の石工職人が制作した。起工から約3か月で完成し、1930年10月24日に除幕式を挙行した。 戦後1964年8月1日、秋田県観光開発に伴い移設された。寒風山の頂上に回転展望台を建設することになったので御柱を頂上より一段低い現在地に移したのである。1984年9月23日、修復を完了した。2010年4月1日、男鹿琴湖会から男鹿市教育委員会へ寄付された。2014年3月20日、男鹿市の有形文化財に指定された。
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