砂糖経済の危機と内戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/17 08:59 UTC 版)
ネグロス島は植民地時代以来、砂糖栽培で繁栄したが、一方で単一栽培(モノカルチャー)化と貧富の格差が進んでいた。わずかな大地主は豪邸での生活を謳歌する一方、農民の多くが平野部のプランテーションに雇われる農業労働者となっていた。 1985年、砂糖の国際的な取引価格が暴落したことでネグロス島の砂糖産業は打撃を受け、地主の破産、プランテーションの放棄、農園労働者の解雇が相次いだ。自分の土地をもって農業を営む農民と異なり、農園主に雇われて働くことで日銭を稼ぐ農園労働者は、地主が砂糖栽培を放棄すると同時に失業者となり一切の収入の道を絶たれるため、ネグロス島全土に急速な勢いで飢餓が広がっていった。やがてユニセフがネグロス島の児童十数万人が親の失業のため餓死の危機にあるとアピールし、日本でも日本ネグロス・キャンペーン委員会などのNGOが発足して飢餓救済のための活動を開始する事態に陥った。 砂糖価格の低下から飢餓に至った遠因としては、植民地時代から続いてきたアメリカとの特恵的関税貿易(フィリピン産粗糖は無関税でアメリカに輸出されていた)が1974年に打ち切られたのちに新しい砂糖の買い手を見つけるのに手間取ったことが上げられる。1970年代以降、EC(当時)やオーストラリア、タイなどにおける甜菜糖や、欧米、日本などの先進国における代替甘味料(サッカリン、コーンスターチを原料とする異性化糖など)の生産が増加しており、オイルショックの影響から各国とも自国産業の保護を優先していたためフィリピン産粗糖の需要は激減していたのである。また、農園主は毎年新しく畑を耕して施肥をしてからサトウキビの苗を植えつけるなどの仕事を開始するにあたり、国立銀行から融資を受ける必要があるが、砂糖危機が生じた1985年ごろはマルコス独裁政権の末期(1983年のベニグノ・アキノ暗殺から1986年の民主化=エドゥサ革命のあいだ)にあたり、政治経済が不安定であったため銀行からの融資に対する利子が急騰したことも、農園主が砂糖栽培を放棄した一因である。 また1970年代以降、こうした貧富の差の大きさから新人民軍(NPA)に身を投じる者が多く、彼らゲリラによる武力攻撃や誘拐が相次いだ。国軍は大規模な対NPA軍事作戦を行い内戦状態となったが、山間部の農村は双方の戦闘と国軍による掃討で破壊され多くの難民が出る惨状を呈した。1990年代半ば以降NPAはほぼ壊滅したが内戦の後遺症は残り、村へ帰れない難民も多い。 政府は1988年以降包括的農地改革法を制定し、ゲリラの原因となる土地所有の問題を根本的に解決するため農地の強制収用や配分をしようとしたが、地主の抵抗が強いため収用・配分目標は達成できておらず、農地の多く、特に輸出のためのプランテーションは依然私有地である。2000年代国際砂糖市場やネグロス経済は回復したが、島内の貧富の差は根強く残っている。 2012年2月6日、東部の沖を震源としたマグニチュード6.9の地震が発生し、多数の死者が出た。
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