ベニグノ・アキノ暗殺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 05:44 UTC 版)
「エドゥサ革命」の記事における「ベニグノ・アキノ暗殺」の解説
亡命先のアメリカで、反マルコス活動を続けていたベニグノ・アキノは、その後大統領選挙への立候補を行うためにフィリピンへの帰国を決断し「帰国した場合、命の保証はできない」とマルコス大統領から警告を受けていたにもかかわらず、1983年8月21日に亡命先のアメリカから中華民国の中正国際空港経由で帰国した。しかしマニラ国際空港に搭乗機が到着し、警護役のフィリピン軍兵士に機内から連行されボーディングブリッジ脇の階段を降りた直後に射殺された。 この暗殺事件は、世界的にマルコス大統領に対しての非難を呼ぶとともに、国内においてくすぶっていた反マルコスの機運を爆発させることになった。実際に、それまで散発的な行動でしかなかった反マルコス運動が、一夜にしてフィリピン全土を覆うようになり、マルコス大統領の独裁体制のみならずイメルダ夫人の豪勢な生活スタイルや、一族による汚職にまで非難が集中するようになった。 アキノ暗殺事件では、多くのフィリピン国民がマルコス大統領自身が直接関与していないにせよ、隠蔽工作には関わっていると考えていた。1985年に暗殺事件の容疑者として起訴された、国軍参謀総長のファビアン・ベール大将らの無罪判決は、裁判の公正性への疑問と共に、この考えをより強くさせるものだった。
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