監督初期
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1927年11月、蒲田時代劇部は下加茂撮影所に合併されたが、小津は蒲田に残り、以後は現代劇の監督として活動することができた。しかし、小津は早く監督になる気がなく、会社からの企画を6、7本断ったあと、ようやく自作のオリジナル脚本で監督2作目の『若人の夢』(1928年)を撮影した。当時の松竹蒲田は城戸の方針で、若手監督に習作の意味を兼ねて添え物用の中・短編喜劇を作らせており、新人監督の小津もそうした作品を立て続けに撮影したが、その多くは学生や会社員が主人公のナンセンス喜劇だった。1928年は5本、1929年は6本、1930年は生涯最高となる7本もの作品を撮り、めまぐるしいほどのスピード製作となった。徐々に会社からの信用も高まり、トップスターの栗島すみ子主演の正月映画『結婚学入門』(1930年)の監督を任されるほどになった。『お嬢さん』(1930年)は当時の小津作品にしては豪華スターを配した大作映画となり、初めてキネマ旬報ベスト・テンに選出された(日本・現代映画部門2位)。 1931年、松竹は土橋式トーキーを採用して、日本初の国産トーキー『マダムと女房』を公開し、それ以来日本映画は次第にトーキーへと移行していったが、小津は1936年までトーキー作品を作ろうとはしなかった。その理由はコンビを組んでいたカメラマンの茂原英雄が独自のトーキー方式を研究していたことから、それを自身初のトーキー作品で使うと約束していたためで、後に小津は日記に「茂原氏とは年来の口約あり、口約果たさんとせば、監督廃業にしかず、それもよし」と書いている。小津は茂原式が完成するまでサイレント映画を撮り続け、松竹が採用した土橋式はノイズが大きくて不備があるとして使用しなかった。しかし、サイレント作品のうち5本は、台詞はないが音楽が付いているサウンド版で公開されている。 1930年代前半になると、小津は批評家から高い評価を受けることが多くなった。『東京の合唱』(1931年)はキネマ旬報ベスト・テンの3位に選ばれ、佐藤は「これで小津は名実ともに日本映画界の第一級の監督として認められるようになったと言える」と述べている。『大人の見る繪本 生れてはみたけれど』(1932年)はより高い評価を受け、初めてキネマ旬報ベスト・テンの1位に選ばれた。さらに『出来ごころ』(1933年)と『浮草物語』(1934年)でもベスト・テンの1位に選ばれた。1933年9月には後備役として津市の歩兵第33連隊に入営し、毒ガス兵器を扱う特殊教育を受けた。10月に除隊すると京都で師匠の大久保や井上金太郎らと交歓し、井上の紹介で気鋭の新進監督だった山中貞雄と知り合い、やがて二人は深く心を許し合う友となった。新しい出会いの一方、1934年4月には父寅之助を亡くした。父が経営した小津地所部の後を継ぐ者はおらず、2年後に家族は深川の家を明け渡すことになり、小津と母と弟の3人で芝区高輪に引っ越した。小津は一家の大黒柱として、家計や弟の学費を背負ったが、この頃が金銭的に最も苦しい時期となった。 1935年7月、小津は演習召集のため、再び青山の近衛歩兵第4連隊に3週間ほど入隊した。この年に日本文化を海外に紹介するための記録映画『鏡獅子』(1936年)を撮影し、初めて土橋式によるトーキーを採用した。1936年3月、小津は日本映画監督協会の結成に加わり、協会を通じて溝口健二、内田吐夢、田坂具隆などの監督と親しくなった。この年に茂原式トーキーが完成し、小津は約束通り『一人息子』(1936年)で採用することを決め、同年に蒲田から移転した大船撮影所で撮影することを考えたが、松竹が土橋式トーキーと契約していた関係で大船撮影所を使うことができず、誰もいなくなった旧蒲田撮影所で撮影した。1937年に土橋式で『淑女は何を忘れたか』を撮影したあと、自身が考えていた原作『愉しき哉保吉君』を内田吐夢に譲り、同年に『限りなき前進』として映画化された。9月には『父ありき』の脚本を書き上げたが、執筆に利用した茅ヶ崎市の旅館「茅ヶ崎館」は、これ以降の作品でもしばしば執筆に利用した。
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