監督信任投票事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 09:34 UTC 版)
1962年、西本は阪急のコーチに就任する。この当時の阪急は「灰色の時代」と揶揄されるほどの弱小球団であった。オーナーの小林米三から「道楽で野球をやっているのではありません。どうか、ブレーブスから灰色のイメージを取り払ってください」と懇願されての就任だった。翌1963年に西本は監督に昇格し、弱小チームを立て直すためキャッチボールのやり方からやり直させるという厳しい練習姿勢で臨んだ。就任1年目は最下位だったが小林からは「小言の一つもなかった」とされ、以後2位、4位、5位の成績で、若手選手の成長が見られながらも結果が伴わなかった。5位に終わった1966年、西本は球団社長の岡野祐(のちにパシフィック・リーグ会長)に「これだけ負けたらもう辞めた方がいいですかね?」と尋ねて慰留を受けた。しかし、岡野は一方で河野旭輝を中心とする有力選手をたびたび自宅に招いて宴席を設けていた。福本豊は伝聞として、岡野がヘッドコーチの青田昇に監督を替えて河野をヘッドコーチとする方針を決めていたと記している。 西本は、その年の秋季キャンプ直前の10月14日、来季も残留する選手に信任投票を義務付けるという思い切った策に出た。西宮球場の会議室に選手を集め「次のシーズンも引き続き、一緒に戦ってくれる覚悟のある者は○印を、そうでない者は×印」を無記名で記載するというものだった。一軍・二軍のマネージャー(矢形勝洋と白井半二)によって開票された結果、45票中「×」が7票、白紙が4票だった。「×」と白紙の合計が11票という結果を西本は重く受け止め、岡野に辞任を申し出た。 @media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}この結果には「主力・若手とも分け隔てなく鍛える」という西本の育成法に、当時の主力選手が辟易していたという事情があった。当時のエース米田哲也は「西本さんはとても困った監督で、練習態度が悪かったり試合前に飲んで二日酔いでゲームに出れば、たとえ主力でも使ってもらえなかった。試合での活躍が月給にはね返る我々としては、たとえふらついていようが試合に使ってもらいたい…と考えていた。でないと、勝てない。これを考えると西本さんの厳格さは困ったものだ」と引退後に述懐している。[要出典]一方、「×」を記した一人の梶本隆夫は、「監督が辞めるかどうかを決める投票だったとは思いませんでした。僕はそんなつもりで書いたのではありません」と直後に矢形勝洋に電話したという。 岡野は西本の辞意を小林に伝えたが、小林は「うちの監督は西本君しかいない」とそれを認めず、続投が決まった。小林のもとには「西本を辞めさせるな」という手紙がシーズン中よりいくつも届いていた。西本は後年「あんな馬鹿なことをやった私を、オーナーはそれでも信頼してくれた」と語ったという。秋季練習の最終日に偶然から始まった西本と選手のマンツーマンによる打撃練習には、やがて主力選手も参加するようになり「西本道場」と呼ばれた。この練習も功を奏して、翌1967年、阪急は球団創設32年目にして悲願のリーグ優勝を果たした。
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