甲府盆地の水路のコンクリート化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 05:54 UTC 版)
「地方病 (日本住血吸虫症)」の記事における「甲府盆地の水路のコンクリート化」の解説
1936年(昭和11年)、甲府盆地のミヤイリガイ生態観察を行った生物学者の岩田正俊は、ミヤイリガイが水田や水路周辺などの流れの緩やかな場所に生息する特性から、用水路をコンクリート化し直線化することによって流速を早め、生息しにくい環境を作ることの有効性を唱えたが、昭和初期当時のセメントは高価なものであり、甲府盆地の全ての用水路をコンクリートで覆うという提案はコストの面から実現するのが困難な提案であった。 しかし、宮入慶之助の門下である九州大学の岡部浩洋と岩田繁男が、筑後川流域の同疾患流行地である佐賀県旭村でミヤイリガイの産卵孵化実験を行い、コンクリート用水路での産卵孵化率が極端に低いことなどが確認され、溝渠のコンクリート化が目覚ましい効果を発揮することが実証された。 また、国立予防衛生研究所の当時の寄生虫部長であった小宮義孝による各機関への積極的なコンクリート化への提唱、働きかけなどにより、山梨県では県職員の佐々木孝を中心に用水路のコンクリート化が、中巨摩郡飯野村(現:南アルプス市飯野)で1948年(昭和23年)から試験的に始まった。 最初のコンクリート化はわずか814メートルの試験的なものであったが、翌1949年(昭和24年)8月に効果を調べると、コンクリート化しても一定の流れがなければ、土砂や枯葉が堆積してミヤイリガイが生息し繁殖してしまうことが確認され、コンクリート化試験報告書には、施工後も溝渠の清掃等、定期的なメンテナンスが必要であると報告されている。 しかしながら、コンクリート化された溝渠(一定の流量と流速のある)がミヤイリガイの生息に適さないことも明らかであった。 用水路のコンクリート化による利点として考えられたのは、 コンクリートで固めることによって、それまで生息していたミヤイリガイを埋没することができる。 コンクリート化することによって、流速が毎秒2尺(約61センチ)あれば、産卵された卵が水草などに固定されず流されて貝の繁殖が不可能となる。 仮にコンクリート水路で生息しても、発見が容易になり的確に消毒殺貝できる。 などである。 また、1950年(昭和25年)に実験現場で行われた実地検分により、コンクリート化された用水路の水流が流速1メートル以上あればミヤイリガイが100%流出することが判明し、厚生省を通じて寄生虫病予防法に「溝渠のコンクリート化条文」が盛り込まれ、県の予算を超えた国庫補助によるコンクリート化事業が1956年(昭和31年)より本格的に開始された。 なお、当時行政区域外であったため工事ができず、コンクリート化工事のネックとなっていた国鉄用地内(中央本線および身延線)溝渠のコンクリート化の実現は、運輸政務次官を経験し、後に第9代自由民主党副総裁となる、旧白根町(現:南アルプス市下今諏訪)出身の金丸信が、縦割り行政の垣根を越えた各方面へ働きかけた政治力の結果である。 こうして、甲府盆地を網の目状に流れる水路は大小問わず全てコンクリートで塗り固められた。コンクリート化に投入された予算は1979年(昭和54年)の段階で70億円に及び、1985年(昭和60年)には累計総額100億円を突破する、莫大な費用を注ぎ込んだ事業であった。 なお、撲滅事業が終了した1996年(平成8年)の時点で、地方病対策のためにコンクリート化された甲府盆地の用水路の総延長は、北海道函館市から沖縄県那覇市間の直線距離に相当する、2,109キロメートル(2,109,716メートル)に達している。
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