生命と生物について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 16:16 UTC 版)
「反デューリング論」の記事における「生命と生物について」の解説
デューリングは進化論ばかりでなく、生命現象や生物そのものについても正確な理解を持たなかった。 デューリングは、構造分化が進み高度化した種を「本来の生命」であるところの「真の生物」と見なしており、それ以外の生物に関して生命の階梯から除外する姿勢を見せた。エンゲルスはデューリングの定義に基づくと原生生物や環形動物、線虫、棘皮動物、原始的な脊索動物などが生命から除外され、それらの生物はすべて死んでいることになると指摘した。 また、真核生物はすべて細胞を単位に構成されているが、この細胞構造もすべての生物の共通構造ではない。動物と植物での細胞構造の相違に限らず、生命は共通する基本形態に基づく論じるには極めて多様なものである。エンゲルスは原始アメーバやモネラ、ミル類と呼ばれる環状藻類を挙げているが、細菌などの微少生物も含めて生命を考察すると、デューリングの定義は不適切なものである。 一方、デューリングは動物を神経系統と鋭敏な感覚知覚能力を備えた生物と定義し、植物を感覚の不備を特徴としていると定義し、先にも触れたが、植物と動物は全く異質の体系に独立して存在と見なしていた。この定義はデューリングの独自の定義ではなく、デューリングが批判の対象としたヘーゲルの自然哲学に由来している。これに対して、エンゲルスは原生動物の一群に動物とも植物とも言えない中間的な生物の存在を指摘している。植物は感覚をもたないというのは十分な理解ではなく、神経系がないため速度に劣るものの葉脈や維管束をつうじて物質をやり取りしながら情報を伝達しているため、外界に対して決して無感覚なわけでない。感覚は神経系が不可欠なものではなく、蛋白質のやり取りでも情報伝達は可能なのである。エンゲルスも指摘していることだが、ハエトリソウなどの食虫植物なども「まだ詳しくは確かめられていない蛋白体に結びつい」た感覚を持っているため、昆虫を巧みに捕えることができるのである。 では、デューリングは生命をどのように理解していたのであろうか。その答えは「造形的形成をいとなむ図式化の媒介によって行われる物質代謝」と理解されている。デューリングの解答は生命に関する点では正確なものであった。デューリングの生命観では、生命とは遺伝子とそこに含まれる遺伝情報に基づいて展開される代謝活動と解釈できるが、これは正しい認識である。したがって、エンゲルスはデューリングの批判ではなく、その不備を指摘することに専念している。生命の起源にまで遡ると、生命とは実はかなり複雑なものである。エンゲルスも生命の本質に関して、生命とは蛋白体の存在様式で、外部の環境から栄養素を取り込んで摂取し、エネルギーを作り出して活動と増殖、排泄をして、造形的な組織の形成をおこない、不断の物質代謝を続けていくことにあると理解している。蛋白体には生命を作り出すカギがあるというのが彼らの直感であった。 デューリングの「造形的形成を営む図式化」、エンゲルスの「物質代謝をおこない増殖能力のある蛋白体」は、20世紀に入り、染色体内部のDNA研究によってようやく解明されていく。 1952年、アルフレッド・ハーシーとマーサ・チェイスは、バクテリオファージを用いて、DNAが遺伝物質であることを直接に確認(ハーシーとチェイスの実験)し、これによりDNAが遺伝物質であることが決定的になる。翌年、1953年、ジェームズ・ワトソン、フランシス・クリックがDNAの二重らせん構造を明らかにした。 また、初期の生命に関しては蛋白質の化学的な合成の結果として現れ出たものだというのがエンゲルスの見解であった。一方、デューリングは生命の起源を宇宙的な意志の産物と語った。デューリングの生命の起源に関する言及はエンゲルスから見て「逃避」でしかなかった。ソ連の科学者アレクサンドル・オパーリン以来、生命の化学進化説は発展を続け、1953年、シカゴ大学ハロルド・ユーリーの研究室に属していたスタンリー・ミラーの行なった実験「ユーリー-ミラーの実験」が行われるなどアミノ酸の化学合成が試みられたほか、多数の仮説の提示が現在もなされている。
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