生化学と遺伝学の出会い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 03:09 UTC 版)
「分子生物学の歴史」の記事における「生化学と遺伝学の出会い」の解説
分子生物学の発展は、20世紀の初めの30年間に大きな進展を遂げた2つの分野、生化学と遺伝学の出会いでもあった。生化学は生体を構成する分子の構造と機能を研究する分野である。1900年から1940年の間に、消化の過程と糖などの栄養素の吸収といった代謝の中心的な過程が記述された。これらの過程の各段階は、特定の酵素によって触媒される。酵素は、血中に存在する抗体や筋収縮を担っているものと同じく、タンパク質である。そのため、タンパク質の研究、その構造や合成の研究が生化学者にとっての主要な目的の1つとなった。 20世紀の初頭に発展した2つ目の生物学の分野は遺伝学である。1900年のユーゴー・ド・フリース、カール・エーリヒ・コレンス、エーリヒ・フォン・チェルマクの研究によるメンデルの法則の再発見の後、トーマス・ハント・モーガンが1910年に遺伝学研究のモデル生物としてキイロショウジョウバエ (Drosophila melanogaster) を採用したことで、この学問は具体化し始めた。その直後、モーガンは遺伝子が染色体に局在していることを示した。この発見の後も、彼はショウジョウバエを用いた研究を継続し、多数の他の研究グループとともに、生命と個体発生における遺伝子の重要性を確証した。それにもかかわらず、遺伝子の化学的実体とその作用機構は謎のままであった。分子生物学者たちは、遺伝子とタンパク質の構造の決定と、それらの間の複雑な関係を記述することに尽力した。 分子生物学の発展は、思想史におけるある種の必然性の結実であるだけでなく、未知、偶発性、評価の難しさのすべてを伴う特徴的な歴史的現象でもあった。20世紀初頭の物理学の顕著な発展によって生物学の発展の相対的な遅れが浮き彫りになり、そこは経験的世界の知識探索の新たなフロンティアとなった。さらに、1940年代の軍事的急迫を受けて発展した情報理論とサイバネティクスは、新たな生物学に多くのアイデアと、特にメタファーをもたらした。 生命の基本的機構の研究のためのモデルとして、細菌とそのウイルスであるバクテリオファージを選んだことは、それらは存在が知られている最も小さな生命体であることを考えると、ほとんど自然な選択であった。このモデルの成功は、とりわけドイツの物理学者マックス・デルブリュックの名声と組織形成のセンスによるものである。彼はアメリカ国内でバクテリオファージの研究を専門的に行うファージ・グループ(英語版)という動的な研究グループを作り出した。 新しい生物学の発展の地理的なパノラマは、とりわけ先行研究による制約を受けていた。遺伝学が最も迅速に発展したアメリカ合衆国と、高度で先進的な遺伝学と生化学の研究が共存していたイギリスがその最前線にいた。物理学の革命の発祥地のドイツは世界で最先端の遺伝学と研究所を有しており、分子生物学の発展において主要な役割を果たすはずであった。しかし、歴史は異なる道を歩んだ。1933年のナチスの到来、そしてそれほど極端ではないものの、ファシストイタリアにおける全体主義的措置の厳格化は、ユダヤ人とユダヤ人以外の多数の科学者の移住を引き起こした。彼らの大多数はアメリカやイギリスに逃げ、それらの国々の科学的な活力をさらに刺激することとなった。これらの動きのため、分子生物学はその最初の段階から真に国際的な科学となった。
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