無罪確定後の北野
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 08:39 UTC 版)
「富山・長野連続女性誘拐殺人事件」の記事における「無罪確定後の北野」の解説
北野は第一審で無罪を言い渡されて釈放された後、友人の紹介を受け、1988年9月から運送会社に就職したが、地元の人々の先入観や偏見は消えず、1年半で退社。その後、新たな就職先を探したが、100社以上から就職を断られるなど、二次被害に苦しめられ、偽名で働いた時期もあった。富山県内の技術開発センターで溶接や金属工芸を学び、1991年9月には雇い先の理解を得て、高岡市内の銅器会社に就職、仏具製作に従事したものの、控訴審判決直前の1992年3月中旬には、風邪や過労などで体調を崩して入院した。その会社も判決後の4月に退職し、それ以降は電気工事関係のアルバイトをして生計を立てていたが、1995年(平成7年)からは人工透析が必要な体になった。結局、北野はいったん就職できても、職場から「裁判になった人を雇う会社なんてろくな会社ではない、と周りに思われているようだ」と言われて退職したり、就職先が得意先から「罪人を雇う社とは契約しない」と圧力を掛けられるようなことがあったため、いったん就職しても3年と続かず、1999年10月時点でも定職に就けずにいた。北野を支援していた中本昌年(富山大学人文学部教授)によれば、北野は釈放後もなお残る根強い偏見のため、マスクで顔を隠さなければ外出できないような時期もあった。 一方、「北野宏を救う会」の学習会に出席したり、「救う会」の会員宅で開かれていた「出前懇談会」で取り調べの状況・8年間の拘置生活の体験を話すなど、無実を訴える活動もしていた。また、釈放後から無罪確定後にかけては、「メディアの中の性差別を考える会」が主催する学習会や、弁護士会が主催する講演会に出席し、冤罪被害者としての苦しみや、代用監獄制度の問題点などを訴えていた。 北野の無罪確定後、彼の弁護団は富山地裁に刑事補償を求める手続きを行った。これを受け、富山地裁(下山保男裁判長)は国に対し、北野からの請求全額(27,006,200円)を支払うよう命じる決定を出した。この決定は、北野が働き盛りの28歳 - 36歳にかけて身体拘束と、「社会の多大な関心を集めた重大事件の嫌疑」を受けたことや、釈放後も4年間にわたって被告人としての立場に置かれ、再就職に苦しむなど社会的不利益を受けたことを考慮したもので、死刑判決を受けた後に無罪が確定した元被告人を除けば、法定最高額が支払われた事例は国内で初めてだった。 また、同地裁は北野と弁護団からの裁判費用の補償請求を受け、刑事訴訟法188条の2に基づき、国に対し、北野と弁護団(団長:浦崎威)へ合計2,179万4,080円を支払うよう命じる決定を出した。その内訳は、公判(第一審・控訴審を併せて222回)や準備手続、公判準備を含めた計63回のために費やした旅費・日当・宿泊費・弁護報酬で、弁護団は弁護費用・報酬などの分配後に解散した。 北野はMへの上告審判決の前日(1998年9月3日)、報道機関に対し「冤罪被害者として今も報道被害を受けている。静かにしておいてほしい」との要望書を送付しており、判決当日には自宅を訪れた『信濃毎日新聞』の記者からの取材を拒否している。一方、1999年には『FRIDAY』の取材に応じ、Mに対して言いたいこととして「僕の人生を返してくれ」「なぜ、僕をだましたのか。なぜ僕でなければならなかったのか。本当のことを教えてほしい」と述べている。
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