海図にない浅瀬
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 17:44 UTC 版)
触底に関する模型実験も行われた。七重浜を模した遠浅で海底が平坦な試験水槽を用い、当時の洞爺丸以上に大量の浸水で傾き、復原力を乏しくした状態の洞爺丸模型を、強風と高波で横向きに陸岸方向へ漂流させた。船体は陸側に傾いたまま、水自体も陸岸方向へ流れる磯波の山に乗って浅い場所に運ばれるが、その途中、船体は徐々に波の山から遅れ、水自体は沖へ流れる波の谷へ移る。しかし、波の谷は山より水面の高さが低く、船体は沖へ流されながら触底してしまう。このため触底時には、陸側に傾いた船の傾斜を立て直す方向に力が働き、次の波の山で再び浮き上がって陸岸方向へ運ばれ、波の谷で沖へ少し戻されながら触底する。この現象を何回か繰り返しているうちに、船体は浅い場所に安定した姿勢で座礁する可能性の高いことが判明した。しかし海底に凸凹がある場合や、船体が錨鎖等で拘束されている場合は、転覆の危険性が高まることも指摘された。 1948年(昭和23年)から1956年(昭和31年)までの日本船の乗揚げ海難事故では、船底が岩礁に乗揚げての一点支持による転覆例や、積荷が移動して不安定になった例以外は、全て安全に座礁できていた。生還した洞爺丸の2等運転士、3等運転士も、触底した当初は、これで沈没は免れたと思った、と語っているほどである。実際、洞爺丸台風の当日、名古屋から室蘭へ向け航行中であった貨物船 第6真盛丸(2,209トン)は、台風避難のため9月26日10時より、函館湾の、後に洞爺丸が錨泊する位置より約600m南西沖に錨泊していた。しかし20時10分頃から急速に走錨し、洞爺丸を追い越して、20時37分に、七重浜沖数10mに、右舷へ約10度の傾きで座礁し、以後安定した姿勢で鎮座でき、同日深夜には流れ着いた20名の洞爺丸からの遭難者の救助も行っている。 洞爺丸が流されて触底した場所は、海図上、水深12.4mで、喫水4.9mの洞爺丸が触底するには深すぎた。しかし、当夜の七重浜沖の海底は台風の大波でかきまわされ、舞い上がった海底の砂である漂砂が、七重浜沖1,000m付近に水深5m程度の浅瀬をつくっていた。このとき洞爺丸は既に右舷に大きく傾斜していたが、上記実験より、海底が平坦であれば、触底自体は右舷傾斜を立て直す方向に働いたはずで、右舷傾斜が増大するには、波の山に乗って陸岸方向へ流されている途中に触底し、右舷船底の揺れ止めの鋼鉄製のヒレであるビルジキールが海底に引っかかる必要があり、それには、海底の凸凹も必要であった。水槽実験でも、水槽の底に毛布のような物をゆるませて置くと、まれにビルジキールが引っかかり横転していた。この、まれにしか起きない、右舷ビルジキールが漂砂の浅瀬に引っかかったままの状態で、左舷から大波を受け続けた場合でも、通常は右舷へ90度横転するだけであった。水深5mの浅瀬での横転であれば、幅15.85mの洞爺丸なら、船体右側1/3が海面下に没するだけである。しかし、不運はさらに続いた。この浅瀬の陸側は10mの深みで、横転だけでは済まず、ここへ転がり落ちてしまい、その角度135度と、ほとんど真っ逆さまの状態で沈没してしまった。後日浮揚された洞爺丸では、右舷ビルジキールの全脱落が確認されている。しかし後の海難審判の採決では、触底後の転覆の原因は、浸水による復原力喪失によるものとされ、国鉄側が主張した上記のビルジキール引っ掛かり説は顧みられなかった。 なお、積載車両の転倒は、船がかなりの大角度に傾斜してから転倒し始めており、転覆の原因とはなっていない。
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