浜松市営バスの廃止まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 08:54 UTC 版)
1969年には、東名高速道路が開通したことに伴い、東名急行バスに資本参加したほか、静岡浜松線を高速道路経由に変更し、名称も東名浜松静岡線となった。また、名古屋鉄道(当時)と協定を結び、浜松-岡崎線を高速道路経由にした上で名古屋まで延長し、東名名古屋線として運行を開始した。同年には遠鉄グループのシンボルマークとして子鹿の「バンビ」が制定され、自社で募集する会員制ツアーも「バンビツアー」と命名され、積極的な営業を展開したほか、1970年には名古屋にも貸切バス営業所を開設し、観光バスの営業エリアを愛知県内全域にも拡大した。 しかし、この頃からモータリゼーションの進展に伴い、利用者数が伸び悩み傾向となったため、路線網の見直しが図られた。高需要路線についてはきめ細かいダイヤを設定することで利便性を拡大する一方で、不採算路線の整理が進められた。また、浜松市内の渋滞に対応して長距離の路線については浜松駅で系統分割を行なって対応した。また、都市間路線も乗客が減少したために、佐久間線が1971年に、東名名古屋線が1975年に廃止されている。この他、1971年には電車とバスの連絡定期券を販売開始し、利用促進を図っている。この連絡定期券は、当初は乗継割引がなかったが、1979年12月に乗継割引が設定され値下げしている。また、1978年には奥山線の一部でデマンドバスの運行を開始した、 合理化と車掌不足の解消を一挙に行なう方策として、1966年5月から浜松市内の浅田循環線・助信線においてワンマンバスの運行を開始した。当初は全区間均一運賃の路線のみ実施であったが、1968年からは多区間制運賃路線でも整理券方式によるワンマンバスの運行を開始、1975年までには全路線のワンマン化が終了した。ワンマン化の過程では、1970年頃に前中引戸や前後扉という配置の車両も試験的に導入されたことがある。また、1970年からは一部の車両で冷房車の導入が開始され、1987年までには全車両が冷房車となった。なお、1974年には系統番号が導入されているが、1981年にはカラー方向幕の採用と同時に方面別に再編成している。 1980年代に入ると、バス業界では先駆とも呼べるサービスを次々と展開するようになった。1984年からは山間部の路線においてフリー乗降制度を導入した。また、通学路線では学校に直行する「モーニングダイレクト」も新設された。モーニングダイレクトは1986年度に運行を増加させた上で方面別に愛称を設定している。この他、西じゅんかんと掛塚さなる台線を皮切りに1986年4月1日以降順次バスロケーションシステムの導入した。 浜松市のバックアップもあり、1975年には静岡県では初めてのバス優先レーンが導入されているほか、1978年にはバス優先信号も設置されている。また、1982年には浜松駅バスターミナルが完成している。なお、1986年にはバスレーンが拡大され、同年5月には浜松市がバス路線総合整備モデル事業実施都市に指定されている。このような状況下、1936年から浜松市交通部により運行されていた市営バスは慢性的な赤字が続いていたが、1983年に市営交通対策協議会が設置され、民間移管が最善の方法であるとの結論を打ち出した。これを受けて、段階的に市営バスから遠鉄バスへの移管が行なわれ、1986年11月30日限りで市営バスは運行を終了した。
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