浜口の複数火口説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 06:52 UTC 版)
「1888年の磐梯山噴火」の記事における「浜口の複数火口説」の解説
浜口博之は米地と同じく、関谷 - 菊池説は、噴火の目撃証言や現地調査の成果に恣意的な解釈を行っていると批判している。しかしその説は米地と大きく異なり、米地もまた、関谷 - 菊池説に囚われた現象解釈を行っていると指摘した。 浜口は、噴火直後に現地調査を行った研究者による論文の内容、そして地元住民の体験報告を精査し、まず農商務省地質局の和田維一郎が官報に発表した報告とドイツ語論文、和田と同じく農商務省地質局の大塚専一の論文、お雇い外国人の研究者であったW.K.Burton、C.G.Knottの論文と、関谷 - 菊池説との違いに着目した。 磐梯山の噴火と山体崩壊の経過としては、浜口は米地の多段階崩壊説は取らず、関谷 - 菊池説と同様に噴火開始と小磐梯の崩壊が極めて短時間の間に連続的に発生したとの見解を採る。浜口が問題としたのは、関谷 - 菊池説では、1888年の磐梯山噴火は小磐梯で発生し、噴火場所はひとつであり、磐梯山東麓の琵琶沢やその周辺に被害をもたらした爆風と土石流は、小磐梯山で発生した噴火とそれに伴って発生した山体崩壊の支流であるとした見解である。浜口によると、噴火は小磐梯だけではなく沼ノ平と琵琶沢の最上流部の日蔭沢でも発生しており、噴火口は複数であったとしている。 噴火が複数の場所で起きたとする根拠は、まず噴火後の実地調査研究についての関谷 - 菊池説以外の論文にある。官報に磐梯山噴火について報告書を掲載した農商務省地質局(地質調査総合センターの前身)の和田維一郎は、火口は山体崩壊を引き起こした磐梯山北部の小磐梯の他に、南部の沼ノ平ないし日蔭沢にも火口があるとした。和田は1890年に発表したドイツ語論文でも同様の説を述べている。また、農商務省地質局の大塚専一の報告書でも沼ノ平からも噴煙が上がり、北方の小磐梯以外に東方の琵琶沢方面へも崩壊が起きたとしている。 浜口は更に、1890年のお雇い外国人帝国大学教授のC.G.Knottが発表した関谷 - 菊池説で沼ノ平から琵琶沢の噴火活動を軽視されていることを批判する論文を注目し、同論文に載せられた大磐梯への登山中に噴火に遭遇したという人物の証言を重視した。証言によると、噴火直後、まず巨大な水烟が立ち上るのを見た。気を落ち着けようと煙草を吸っていると、轟音と振動の中、(琵琶沢下流の)自分の生まれた村が土石流に襲われていく状況を目の当たりにした。その直後、磐梯山(小磐梯)がほぼ丸ごと上に持ち上げられそのまま下の谷の方に流れ落ちていき、同時に立ち昇る大量の水蒸気の中、電光があらゆる方向に放射された……としている。 また、他の地元住民の噴火目撃情報や、小林栄の磐梯山噴火に関する論文などからも、関谷、菊池論文の定説は、関谷の火山噴火に関する認識に沿った内容にまとめられたもので、それに合わない情報は無視され、結果として事実とは異なる歪曲されたものになったと結論付けている。 浜口は噴火の主体は小磐梯ではなく、沼ノ平直下約1キロメートルに発生した半径約500メートルの熱水溜りであるとした。この説の根拠としては、上述の噴火直後に現地調査を行った研究者による研究論文の内容、地元住民の体験報告の他に、近年の磐梯山直下で発生した群発地震の発生状況が挙げられている。浜口は、1888年磐梯山噴火は、沼ノ平直下約1キロメートルの半径約500メートルの熱水溜りを爆発源とする水蒸気爆発で、噴火直後に発生した水烟は沼ノ平の火口から噴出し、その後まず日蔭沢の火口から爆風と土石流が発生し、続いて沼ノ平直下の熱水溜りから割れ目に沿って斜め北方に、高温かつ高圧下にあった水蒸気などからなる火山性の流体が急激に減圧、膨張しながら噴出した結果、小磐梯を消滅させた山体崩壊が発生したものであるとした。
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