関谷 - 菊池説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 06:52 UTC 版)
「1888年の磐梯山噴火」の記事における「関谷 - 菊池説」の解説
帝国大学の教授、関谷清景と助教授の菊池安は、帝国大学の派遣命令を受けて噴火直後の磐梯山に赴き、調査研究に従事した。関谷は小磐梯が全面的に崩落した現場の状況を把握した後、崩壊の規模を算定する必要性を感じ、帝国大学に測量を行う工学士の追加派遣を要請した。二人は7月31日から磐梯山中腹の中ノ湯の半壊した建物をベースキャンプとして調査を行い、8月3日からはメンバーに加わった工学士の戸谷亥名蔵と共に、8月8日に下山するまで調査を続けた。 二人は共同で磐梯山での調査研究に従事したが、両名の磐梯山噴火に対する認識には相違があったとされる。しかし合同の研究成果として公表された関谷、菊池(1888)、 S.Sekiya,Y.Kikuchi(1890)は、両論文とも教授であった関谷の見解に沿ってまとめられており、関谷の解釈と異なる部分の菊池の見解は見られない。いずれにしても二人の現地調査を踏まえた研究成果は高く評価され、1888年の磐梯山噴火について最も重要な調査研究とされ、専門家は基本的に関谷、菊池の論文をもとに研究を展開するようになった 関谷、菊池論文によれば、噴火当日、朝の7時頃から磐梯山で山鳴りがあり、その後、強い地震が続いて発生し、引き続いて強い鳴動の中、小磐梯から水蒸気と共に岩石が吹き上げられた。まもなく15回から20回の大破裂が発生して小磐梯からの水蒸気交じりの岩石の吹き上げが続き、最後の大破裂のみが上ではなく、横側の北へと抜けたとした。大破裂が始まってから最後の破裂まではわずか1分程度であった。その後も約30~40分間、規模が小さな崩落が続いたとした。 これによって、1888年の磐梯山噴火の噴火活動は、噴火によって消滅した小磐梯で発生したと結論付け、磐梯山東麓の琵琶沢やその周辺に被害をもたらした爆風と土石流は、小磐梯で発生した噴火とそれに伴って発生した山体崩壊のいわば支流であると解釈した。 磐梯山の噴火で発生した崩壊量は、約1.213立方キロメートルと推定された。この数値は崩壊前の小磐梯を円錐形をしていたとの推測のもとに算定された。噴火と山体崩壊の経緯やメカニズムとともに、約1.2立方キロメートルとの崩壊量推定もまた定説となり、その後も崩壊量が1立方キロメートル程度と見積もった研究成果が公表されている。
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