浜口吉右衛門家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 09:01 UTC 版)
浜口家は代々醤油醸造をした家系で、銚子の醤油醸造業の多くは、紀州湯浅醤油の流れを汲むもので、関東好みの濃口醤油の基盤が築かれた。浜口吉右衛門家(東浜口家)も、正保2年(1645年)創業というヤマサ醤油(西浜口家)も出自は和歌山県有田郡である。江戸に出張店を設け、そこに出荷が集中する時期もあったが、販売の拡大する19世紀初頭は、出荷先に江戸の有力醤油問屋が名前を連ねている。なかでももっとも大口の出荷先が日本橋小網町の広屋、浜口吉右衛門家であった。その後、吉右衛門家の末裔がヒゲタ醤油の経営に参画し、現在に至る。 初代浜口吉右衛門は紀州出身の浜口安太夫忠豊で、醤油醸造が盛んだった下総国飯沼村(現・千葉県銚子市)に醤油蔵を設け、浜口吉右衛門に改名したのが始まりである。同村では元和2年(1616年)に摂津国の酒造家の指導で田中玄蕃が醤油の醸造を始め、正保2年(1645年)に紀州から忠豊の次男知直(初代浜口儀兵衛、ヤマサ醤油創業者)らが移り住んで醤油の醸造を開始しており、そこに忠豊も加わり、銚子の醤油産業を発展させた。 2代目浜口吉右衛門は忠豊の嫡子の忠泰で、知直(浜口儀兵衛)の兄である。以降、兄の浜口吉右衛門家は東浜口家、弟の浜口儀兵衛家は西浜口家と通称される。吉右衛門家は江戸に進出して醤油販売を手掛け、儀兵衛家が大正3年(1914年)に販売部門を設けるまで、儀兵衛家製造の醤油販売を担当した。3代目浜口吉右衛門(正勝)は1716年江戸小網町に醤油問屋「廣屋」を開店し、江戸と銚子を行き来する船積問屋としても発展した。6代目(矩美)は1814年ごろに紀州の実家に本座敷を建増し(国の重要文化財「濱口家住宅」の一部)、宮原村の滝川喜太夫吉寛の三男で東浜口家に婿入りした7代目(東江)は、西浜口家らと共同で郷土の子弟を育てる私立耐久社(現・和歌山県立耐久高等学校)を創立するなど故郷の発展に貢献した。 9代目(本項)の長男・乾太郞(1883年生)が10代目を継ぎ、醤油製造販売のほか、帝国鉱泉株式会社社長などを務めた。9代目の長女・尚子(1896年生)は嵯峨実勝に嫁ぎ、その娘嵯峨浩は愛新覚羅溥傑に嫁いだ。10代目の長男・久常(1907年生、慶応大経済卒)が11代目となり、その妻(野津鎮之助の娘)との長男・勝久(1936年生、上智大経済、ザビエル大大学院、ニューヨーク大大学院卒)が12代目吉右衛門を継ぎ、味の素会長鈴木恭二の娘と結婚した。勝久の弟・濱口敏行はヒゲタ醤油の現・社長である。
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