米地の多段階崩壊説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 06:52 UTC 版)
「1888年の磐梯山噴火」の記事における「米地の多段階崩壊説」の解説
関谷 、菊池論文によるによる磐梯山噴火と山体崩壊のメカニズムは多くの研究者に受け入れられて定説化したが、米地文夫は地元住民の噴火の目撃談や噴火の最中に撮られたと考えられる写真などから、反論を唱えている。米地によると、関谷、菊池論文は自説に合わない目撃談等は無視、歪曲するなど、恣意的な資料操作を行ったと推測している。 米地は噴火開始の直後に小磐梯が全面崩壊したわけではなく、段階的に崩壊したと考えた。山体崩壊は磐梯山北側山腹での水蒸気爆発直後、同じく山腹部での小規模な崩壊として始まったとしている。そして山腹で起きた崩壊の結果、不安定となった小磐梯は最終的に山頂部を含む大崩壊を引き起こし、消滅したと考えている。米地は小磐梯は噴火開始後約80分から90分後までは残存したとした。 米地説の根拠は、前述のように地元住民の噴火の目撃談や噴火の最中に撮られたとされる写真などである。米地は噴火に関する証言の中でも、磐梯山山腹の中ノ湯に湯治に訪れていた最中に噴火に遭い、生還した鶴巻良尊による証言を重視している。鶴巻の証言から、噴火は磐梯山北側での山腹で始まり、同じく山腹部で小規模な崩壊が始まったのは明らかであるとした。そして最初の破裂の後、約2時間後に二度の破裂があったとの証言から、自らの多段階崩壊説を補強している。また噴火開始直後に撮影されたとされる写真には小磐梯が写っているとして、噴火直後に小磐梯が崩壊したという説は誤りで、噴火開始後ある程度の時間は残存していたと指摘している。 1888年の磐梯山噴火と山体崩壊について、米地は水蒸気爆発は小規模なもので、小磐梯が全面崩壊した大規模な崩壊はむしろ地すべり的な要素が強い現象と見なしている。そして関谷、菊池が約1.213立方キロメートルと推定した崩壊量についても、推定される崩壊前の小磐梯の地形などから考えて規模が大きすぎるとし、0.5~0.6立方キロメートル程度と推定した。 米地の多段階崩壊説については、関口、原口、岩橋(1995)、茂野(2004)のように多段階崩壊を前提として噴火モデルを提唱している専門家がいる。一方、多段階崩壊説への対論としては、まず裏磐梯の旧桧原村方面に流れ下った岩屑なだれは、噴火開始から10分以内に押し寄せてきたとの証言がほとんどであり、これは多段階崩壊説にとって不利な材料である。また噴火直後に撮られたという写真は小磐梯ではなく、小磐梯の西側山体にある湯桁山であると反論がある。これらの説に対し米地は、噴火後約10分以内に山麓の村々を襲った岩屑なだれは山腹部で発生した最初の山体崩壊によるものであり、噴火直後に撮られた写真に写った山影はやはり小磐梯であると再反論している。
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