流域一貫開発へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/14 21:05 UTC 版)
「飛騨川流域一貫開発計画」の記事における「流域一貫開発へ」の解説
飛騨川流域の水力発電事業を継承した中部電力は、日本発送電が調査していた朝日発電所とダム工事に着手する。当時電力施設は空襲による破壊や酷使による故障、新規開発の停滞により十全の電力供給を図れなかった。反面電力需要は民需用電力の使用制限が解除されたことで爆発的に増加、結果需給バランスが崩壊して頻繁な停電を伴う深刻な電力不足に陥った。このため大規模な貯水池を有する水力発電所を建設することで年間を通じ安定した電力供給を行い、当時石炭不足で稼働率の低かった火力発電所に代わる主力設備として大規模なダムを擁する水力発電所の建設が日本各地で盛んに行われるようになった。さらに流域間で効率的な水の利用を行うことで既に運転している水力発電所の出力や年間発生電力量を増加させることも電力供給上重要となった。このため飛騨川流域でも戦前とは異なり流域全体で水力発電開発計画を進める必要が生じ、朝日発電所の建設などを経て1962年流域全体の大規模水力開発計画を立てた。飛騨川流域一貫開発計画である。 まず朝日発電所については飛騨川本流に朝日ダムを、支流の秋神川に秋神ダムを建設し両方の貯水池より導水した水を発電所に送り、2万500キロワットの発電を行う。朝日発電所は1953年(昭和28年)に両ダムと共に完成、運転を開始。続いて小坂・瀬戸第一発電所間に残された落差を有効利用するための東上田発電所(出力3万5000キロワット)の建設が始まり、飛騨川本流の旧小坂町東上田に東上田ダムを建設して発電する水路式発電所として1955年運転を開始。さらに小林重正が発案し1920年に水利権使用許可を得ていた久々野発電所(出力3万8400キロワット)は1960年(昭和35年)より朝日ダムの直下流に久々野ダムを建設、トンネルによって大野郡久々野町(現在の高山市久々野町)の発電所に送水するという計画で、1962年に運転を開始した。 朝日・東上田・久々野の3発電所は河川の流量が減少する冬季の渇水期にも安定して発電し、電力需要のピークに対応可能とするため建設されたが、1960年代に入ると大容量火力発電所の建設が活発になり次第に電力開発の主眼が水力から火力へ移行する「火主水従」時代になりつつあった。また原子力発電も実用化され始めた。こうした火力発電や原子力発電は高出力運転を継続しなければならないため、緊急時即座に出力を増強する運転は困難であった。これを補い火力・原子力との連携を図る上で注目されたのが揚水発電であり、1965年7月には従来の飛騨川流域一貫開発計画を拡充した飛騨川150万キロワット一貫開発計画を立案。その根幹事業として計画されたのが高根第一・第二発電所である。飛騨川本流最上流部の大野郡高根村(現在の高山市)に高根第一ダムと高根第二ダムを、両ダムの間で揚水発電を行う高根第一発電所(出力34万キロワット)と、高根第二ダムを取水元とする高根第二発電所(出力2万5100キロワット)をそれぞれ建設して増加する電力需要に対応するというものである。両発電所は1969年(昭和44年)に運転を開始し、飛騨川流域における電力発生量は大幅に増加した。なお高根第一ダムは飛騨川流域における唯一のアーチ式コンクリートダムであり、高さ133.0メートルは飛騨川流域随一を誇る大規模なダムである。
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