流域の開発史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/06 02:40 UTC 版)
アサハン川の上流部には、200メートルの落差を持つシグラグラ滝、タンガ滝など多くの滝が存在している。巨大な天然のダムであるトバ湖に由来する毎秒100t以上もの豊富で安定した水量、水源から河口まで900m以上に達する大きな高低差、約10mと川幅の狭いV字峡谷は、水力発電を行うために世界的にも稀な好立地となっており、包蔵水力は100万kW以上とされる。このため第二次世界大戦の前から電源地帯として開発計画があり、戦前には宗主国のオランダ、戦中には日本が現地調査を行ったが、いずれも開発には至らず、日本の調査は敗戦により中止を余儀なくされた。この日本の調査事業には久保田豊らが従事しており、のちに日本が実現する開発事業にも関わることとなる。 戦後にインドネシアが独立すると、久保田が設立した日本工営が、水力発電による豊富な電力と、その電力を使ったアルミニウム精錬を組み合わせた計画を1953年にインドネシア政府に提示したが、戦時賠償交渉のもつれもあって日本による事業の継続は不可能となった。日本が外れた後はフランス、アメリカ合衆国、ソビエト連邦などが調査を行い、特にソ連はインドネシアのスカルノ大統領とイデオロギーが近かったこともあり1億ドルの長期借款を供与され1962年に開発契約を締結したが、仮設工事程度しか進捗しないまま1965年の9月30日事件でスカルノが失脚すると撤退し頓挫してしまった。政変後にスハルト政権が発足すると、1967年に日本工営が再び「水力発電とアルミ精錬のパッケージ」計画を提案。スハルトの経済開発優先方針や、久保田と日本工営、住友グループからスハルトへの働きかけもあり、日本がアサハン川開発事業を引き受けることとなった。
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