母校・横浜高校での指導
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渡辺の恩師である笹尾の監督退任時に後任に渡辺を推薦したこともあり、1965年に横浜高等学校(以降、横浜)硬式野球部部長に就任。つなぎ役の監督として専修大学で指導を行っていた高橋輝彦の下で学んだ。1968年の秋、24歳で監督に就任。 渡辺が監督に就任して以降、原貢率いる東海大相模に2勝7敗と甲子園の道を絶たれた。この当時から両校はライバル関係にあった。だが、原とは、高校野球においては、ライバルであり、敵であったと同時に、交友があったとされ、2014年の原の訃報が報じられた際には「一世を風靡したというか、一時代をつくった人。大きな壁だった。打倒原、打倒相模と追いかけたことで、(横浜の)今がある」と追悼している。 監督就任1年目の1969年の夏の県予選の決勝で武相に惜敗し、ショックの余り北海道まで逃避行したことがあった。しかし1973年の第45回選抜高等学校野球大会で、エース永川英植を擁して初出場での初優勝を達成。2012年春、史上4人目となる甲子園通算50勝目を挙げた際のインタビューでは、思い出に残る勝利としてこの年の広島商業との決勝戦を挙げた。就任当初は監督専任で臨時職員のような立場だったが、1976年から監督業の傍ら関東学院大学の2部に4年間通って教員免許を取得した。その後は同校の社会科教諭となる。 この頃について渡辺は、「部員全員にまで目が行き届かなかった。当時の部員には申し訳なく思っている」と語っている。更に結婚し2児を儲けた父親でもあった渡辺だったが、生徒の指導に熱が入る余り家族に余り目を向けることができなかったと語っている。 横浜高校創立者である黒土四郎の人生の教訓を座右の銘としており指導の際に用いられる。内容は以下の通り。 「 富士山に登る第一歩 三笠山に登る第一歩 同じ一歩でも覚悟が違う どこまで登るつもりか 目標がその日その日を支配する 」 1980年の第62回全国高等学校野球選手権大会で愛甲猛を擁し優勝後、思ったような試合ができず甲子園は疎か、県大会でも勝利できずに悩むこととなる。1981年は斉藤宏、1988年から1990年は上野貴士が監督として指揮を執り、渡辺は野球部長に回った。第72回大会県予選敗退後の1990年秋、渡辺は高校の同期で当時、Y校こと横浜商業のコーチを務めていた小倉清一郎と磯子駅で再会を果たす。小倉は1977年に横浜の監督を務めたことがあったが部長職に就いた渡辺と意見が対立し短期間で横浜を去った過去があった。こういった経緯から渡辺は小倉に教員免許を取り再度、横浜で指導するよう請い、1994年に小倉を部長に監督待遇で就任させ長らく「二人監督制」で指導した。 1994年には第1回AAAアジア野球選手権大会の日本代表監督として出場し優勝を飾った。 1998年には松坂大輔ら後にプロ入りした選手4名を擁し、明治神宮野球大会、高校野球史上5校目となる甲子園連覇と国民体育大会優勝の4冠を含む史上唯一の公式戦年間無敗(44勝)を達成。 2004年に第21回AAA世界野球選手権大会の日本代表監督として出場。決勝でキューバに完封負けを喫するが準優勝を果たした。 2006年の第78回選抜高等学校野球大会で福田永将らを擁し優勝。この優勝で渡辺は1970年代から2000年代までの全ての年代で全国制覇を達成した唯一の人物となった。 2011年には、横浜の過去の実績や渡辺の高校野球界の発展に尽力した功績が評価され、芸術や社会福祉、スポーツなどの分野で横浜市の発展に貢献した者に送られる横浜文化賞(第60回)を受賞。更に同年、ホームグラウンドの横浜市で開催された第9回AAAアジア野球選手権大会の日本代表監督として出場し2度目の優勝を飾った。 2012年には、横浜の硬式野球部寮で栄養士を務めている次女の息子で、渡辺にとって孫の佳明が横浜に入学し、硬式野球部に入部した。父(監督)と息子の親子鷹は、稀にある話だが、祖父(監督)と孫のパターンは異例の出来事である。
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