母校・松山商業コーチ、監督時代(1980年~2009年)
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駒澤大学卒業後には東京の信用金庫への就職が内定していたが、当時の松山商業野球部部長からの強い要請、説得を受け1980年4月から母校野球部コーチに就任。窪田欣也監督のもとで「技術や心構え」を学んだ。コーチ時代の1986年夏第68回全国高等学校野球選手権大会には全国準優勝を成し遂げている。1988年9月1日に窪田監督の後任として同校野球部監督(第22代目)に就任。1990年に監督就任後初めてとなる夏の甲子園出場を果たした。(この甲子園出場は、愛媛大会決勝戦でこの年の選抜準優勝校でもある新田との延長11回、3時間43分、スコア9-8の打撃戦を制して勝ち取ったものだった。)以来、1992年春の第64回選抜高等学校野球大会、1995年夏の第77回全国高等学校野球選手権大会、1996年春の第68回選抜高等学校野球大会へ出場するもいずれも初戦敗退。覚悟を持って臨んだ1996年夏の第78回全国高等学校野球選手権大会で27年ぶりの全国制覇を成し遂げた。2001年夏の第83回全国高等学校野球選手権大会では2年生でエースの阿部健太(後の近鉄など)を擁しベスト4に進出している。この大会では、京都代表・平安との古豪対戦が実現したが、両チームが夏の甲子園で対戦したのはこれが初めてだった。試合は松山商業が4-3で平安を下し準決勝へ進出している。2006年9月19日に「思い通りのノックができなくなった」と体力面の衰えを理由に勇退を表明した。奇しくも全国制覇から10年、夏の甲子園では松山商業対三沢以来37年ぶりとなる早稲田実業対駒大苫小牧の決勝戦引き分け再試合が行われた年でもあった。後任は同校野球部OBで2001年9月から野球部の指導に携わっていた白石勇二コーチが23代目の監督に就任した。勇退後は、同校に残り野球部顧問を務めていた。しかし、2008年12月に野球部員によるいじめが判明し対外試合禁止処分を受けたことに伴い白石監督が引責辞任。同年12月10日監督(実質的には監督代行という形であった。)に急遽復帰しチームの立て直しに努めた。2009年7月27日に自身が監督(監督代行)を退任し後任に前川之江高校監督で同年4月1日付で松山商業へ赴任していた重澤和史コーチ(今治西高校野球部OB)が24代目の監督に就任することが発表された。松山商業の監督に同校OB以外が就任するのは、重澤コーチが史上初めてである。退任後は、再び顧問に戻っている。
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