歌手 丸山明宏とは? わかりやすく解説

歌手 丸山明宏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 21:50 UTC 版)

美輪明宏」の記事における「歌手 丸山明宏」の解説

エンリコ・カルーソーベニャミーノ・ジーリの様なオペラ歌手コンサート歌手夢見て1951年の春、15歳美輪は、国立音楽高等学校現・国音楽大学付属高等学校進学するため上京する。ある時、帰省した際に、父が生活が苦しくなった親戚に対して無情に見捨てるような態度をとったことに激怒し大喧嘩した。父から絶縁言い渡され仕送り当然ながら止められた。美輪東京でひとり生きていくため高等学校中退生活費を稼ぐために進駐軍キャンプ廻りをして歌を披露した2015年時点で「芸歴64年1951年(昭和26年)に進駐軍キャンプ廻りジャズ歌いギャラ頂いたことがプロとして始まり」と本人語っている。新宿駅寝泊りしていた時期もある。 1952年17歳になった美輪は、ゲイバーバーテンなどのアルバイトにも従事して日当稼いでいた。その頃銀座7丁目にあるシャンソン喫茶銀巴里」(1951年 - 1990年)で美少年ボーイ)兼歌手募集張り紙広告見て応募シャンソン喫茶銀巴里」と歌手として専属契約交わし国籍年齢・性別不詳として売り出す次第人気博し三島由紀夫吉行淳之介野坂昭如大江健三郎中原淳一遠藤周作寺山修司なかにし礼等、文化人支持を得る歌手としての道を歩み始めた頃、父は事業失敗し美輪のもとを訪ねて金の無心をしてきた。かつての、父の親戚への無情な仕打ちと同じことを美輪出来るはずもなく、かといって父を許せない気持ち消えるはずもなかったが、兄弟の生活を守るために美輪銀巴里での歌手活動とは別にアルバイト称してキャバレー進駐軍キャンプ歌った1957年シャンソンメケ・メケ」を日本語カバーし艶麗な容貌で、シャンソン歌い上げ一躍人気を博す元禄時代小姓衣装洋装取り入れレース地ワイシャツ等を身に纏いユニセックスファッションと、三島由紀夫が「天上界の美」と絶賛した美貌で、マス・メディアから「神武以来美少年」、「シスターボーイ」と評され一世を風靡する。同じ、1957年製作の映画暖流』(増村保造監督大映)に歌手として出演している。 「メケメケ以来ブームは、1年程で沈静化その間に、週刊誌にて、自身同性愛者である事を公表したことや、旧来のシャンソンイメージ美輪曰く蝶よ花よ、星よ月よに終始する“おシャンソン”」)に無い、自ら和訳した生々しい内容シャンソン歌唱した事に対す反発もあり、人気急落する。そんな逆風の中、作詞・作曲活動開始今もって美輪主要なレパートリーとなっている「うす紫」、「金色の星」、「ふるさとの空の下」等の音楽作品は、この頃、既に作詞・作曲していた。しかし、その活動当時聴衆からも歌謡界からも理解得られず、レコード化すらできなかった。美輪曰く人様情け生かされた」不遇の時代が続くと共に吐血等の原爆症悩まされ始める事になる。 しかし、1963年には、中村八大らの助力により日本初となる全作品、自らの作品によるリサイタル開催。翌、1964年には、「ヨイトマケの唄」を初めステージで披露する1966年前年の内にレコード化された「ヨイトマケの唄」(「ふるさとの空の下で」とのカップリング)が注目され人気再燃する

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