業績と批判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 16:07 UTC 版)
「テオドール・モムゼン」の記事における「業績と批判」の解説
モムゼンの業績は、主に以下の三つにわけられる。 『ローマ史(英語版)』の執筆 『ラテン碑文集成(英語版)』(CIL)編纂事業の開始(1854年-現在まで続く) 『ローマの国法』と『ローマの刑法』 エドワード・ギボン『ローマ帝国衰亡史』が、18世紀イギリスの歴史文学の名作として命脈を保っているのに対し、モムゼンの業績(殊にその『ローマ史』(1854-56年))は、文学的価値に加え、現代の研究においてもなお基本的な重要性を持っている。 モムゼンは、イタリア旅行中にサン・マリノでラテン語碑文研究で著名だったバルトロメオ・ボルゲーシ(英語版)と出会い、当時カンピドリオで行われていた考古資料(碑文、貨幣、パピルス文書)を取り入れる研究に関わり、これらを積極的に利用した。伝世文献史料だけを重視していた従来の歴史学を飛躍的に革新し、彼自身の専門的知識も加えることによって、バルトホルト・ゲオルク・ニーブールを超えたと言われる。しかし一方で、考古学的証言に史料価値を認めなかったことが、後世にまで影響している。また、『ローマ史』の叙述では、例えば古代ローマのパトリキをユンカー、平民を浮浪無産者層などと、当時のプロイセンの現代用語で記述したため、当時の一般読者層からは高く評価され、当時の知識人の必読書ともされたが、その現代性は歴史学界から批判された。 「文献学の第一人者」と呼ばれた彼は『ローマ史』の中で、これまでローマによるイタリア征服とされていたものを、当時のイタリア統一運動を意識してか、イタリック人統一と発想を転換して好評を得た。タプススの戦いの勝者ガイウス・ユリウス・カエサルを英雄視し、それに抵抗したキケロやグナエウス・ポンペイウスを卑小化した。しかし、その後のアウグストゥスが描かれるはずだった第四巻は出版されず、第三巻の出版後30年経って第五巻が出版され、帝政ローマの属州についての研究成果が示された。 彼は当時の大規模な研究グループを指導する立場に就き、碑文や貨幣、パピルスやローマ法関連資料をまとめていった。これらは現代においても基礎としての地位を得ている。しかしこれらのプロジェクトに携わった研究者は、専門化を余儀なくされ、現代にまでその影響が続いている。また、ドイツ学会においては文献学と考古学が古代史から切り離され、ローマ史とギリシア史も分離することとなった。しかしながら、それらの専門化した研究をベースとして組織化し、国際交流を深めてもいる。モムゼン自身は無神論者であったため、古代末期にはノータッチであったが、彼の弟子によって帝政ローマの没落やキリスト教の普及が語られた。ただ、共和政ローマ研究の後継者はおらず、後継者と見なされていたマックス・ヴェーバーも後に離れており、カール・ユリウス・ベロッホ(英語版)との確執は有名である。 20世紀前半の古代ローマ史家ジョン・バグネル・ベリーはモムゼンについて、「本当の貢献は、史料批判を経た詳細なローマ碑文の編纂とローマ法に関する専門論文にある。モムゼンが科学的方法を駆使した領域はそこなのである」と記載しているが、古代ローマ法制史についても、彼の学説に合わせるための条文の強引な解釈や、場合によっては史料が存在しないことがしばしば見られ、後世の研究者の批判にさらされることとなった。
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