業績と影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/05 10:17 UTC 版)
「ゲオルギー・プレハーノフ」の記事における「業績と影響」の解説
プレハーノフの政治活動は、当時のロシア左翼で支配していたナロードニキ思想への批判から始まった。ロシアで起こっていた社会構造の変化を見守り、農村共同体は崩壊し、革命の担い手となることができないことを知る。ロシアは社会主義に進み始める前に、資本主義的発展を経過しなければならない、来るべき革命はブルジョア革命である、と考えた。したがってロシアで生まれ始めた労働階級は、帝政から政治権利と自由を奪い取ることを目的とするべきである。『社会主義と政治的闘争 Социализм и политическая борьба,1883年』『我々の意見の相違 Наши разногласия』(1885年)はナロードニキを批判し、労働階級の革命での役割を論証したものである。 プレハーノフは、ヨーロッパでのマルクス主義哲学の最初の解説者であり、弁証法的唯物論を時代の哲学に対決させるという例のない仕事をおこなった。『一元論的史観の発展の問題 К вопросу о развитии монистического взгляда на историю』(1895年)はその方面での最高傑作であり、それを読んだレーニンはただちにペテルブルクの仲間に激賞して薦めている。その後も「プレハーノフが哲学について書いたものを全部研究しないで、知的で真正なマルクス主義者になることはできない」とプレハーノフの哲学における権威を認めている。文学や美術の批評として書いたものは、アントニオ・ラブリオーラやフランツ・メーリングに匹敵する。 1890年代の後半にはベルンシュタインなどの修正主義者に対して、正統マルクス主義を擁護するために論争に加わった。この論争でのプレハーノフは、修正主義への非妥協性においてローザ・ルクセンブルクと並んで印象的であり、後のボリシェヴィキたちの模範となったともいえる。さらにロシア国内での合法マルクス主義、経済主義などの、マルクスの教義から革命性を取り除こうとする傾向への精力的な敵でもあった。第2回党大会での〈革命の利益は最高の法則である Salus revolutiaes uprema lex〉という公言は、プレハーノフによってなされた。 日露戦争の時は「国際社会民主主義は、国際戦争に反対する抗争に立ち上がらなければならない」としてロシアの敵国日本の社会主義者片山潜と握手までしたが、1914年の大戦勃発時にレーニンやルクセンブルクが「戦争を内乱に転化する」べきであるとしたのに対して、中央同盟国のドイツ社会民主党やオーストリア社会民主党の論客たちをプロイセン的な軍国主義と否定し、ブルジョア民主主義である協商国の帝政ロシア及び臨時政府を支持して社会排外主義を主張し、党内派閥統一を率いた。プレハーノフはナロードニキ批判のころからの「農民は革命の主体ではありえない」という確信に忠実であり、かつての弟子であるレーニンがブルジョア革命ではなく、農民と同盟して革命を起こしたことに対してナロードニキ的だと非難したのは当然であった(しかし、ボリシェヴィキが支持を集めたのは都市部でモスクワでは50.1%、ペトログラードでは45.3%だった)。ドミトリー・ヴォルコゴーノフは、プレハーノフは「"結社の親方"、つまり彼がレーニンとともに生み出した党の指導者としてではなく、ボリシェヴィキの災厄を予言した人物として歴史書入りした」と評している。
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