業績と人となり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/16 23:51 UTC 版)
岸田は日本におけるクモ学の開祖である。内田監修(1966)では、蛛形綱の研究史の項の日本に関する部分で岸上鎌吉に触れたあと、岸田について「はじめは真正蜘蛛類に手をつけ、しだいに他の目にも及んで、蛛形綱の分類学的知識を普及させるのに貢献」したとある(p.25)。さらにサソリ目の項では彼のキョクトウサソリに関する研究を「特筆すべき」と述べ(p.47)、ダニ目では真っ先に岸田の名があがり、特に彼の影響によって内田亨などの専門的研究者が出たことを強調している(p.141)。なお、カニムシ目とザトウムシ目については研究史の項は無いが、少なくともザトウムシ目ではいくつかの学名を岸田が付けている。 八木沼は、日本のクモ学の発展について記した文中で「1930年頃までは岸田久吉の一人舞台」と書いている。1930年に日本で最初のクモ類図鑑とも言うべき湯原清次の『蜘蛛の研究』が出版されたが、掲載されたクモの同定は岸田によるものであった。ザトウムシ目についても5種があげられ、いずれも岸田の名による学名が付されているが、現在生きているものはないようである。 ダニ目においても、ササラダニ類の専門家でこの分野の開拓者でもある青木淳一は、岸田を「日本で最初にダニ類をされた方」と述べ、ササラダニについてもいくつかの新種を発表していたと記している。実際に青木が研究を開始したとき、それ以前に知られていたのは岸田の記録した7種のみであった。少脚目では、岸田は日本で最初の種を記載した。 ところが、岸田の仕事には大きな瑕疵がある。彼が記載した動物の主なものは下に挙げた通りながら、彼が学名を与えたものは他にも多い。ただ、その多くが現在は生きていない。これは学問が先人の作業を見直して進むことを思えば、不思議なことではない。しかし岸田の場合、より大きな問題として、正式な記載を怠ったり記載そのものがいい加減である例が多い。 例えば上記の通り、湯原の著書の蜘蛛の同定は岸田によって行われている。そこでは命名者をKishidaとした学名が数多く挙げられているが、そのうち多くのものに原記載がない。湯原は新種記載を行う意図はなかったので、当然、岸田が正式な記載をすることを前提に出版されている。それにも関わらず、正式な記載がないため、その学名は無効であるか、あるいは湯原自身が記載したと見なさざるを得ない。タイプ標本の指定もないため、それが正式にどの種であるか、あるいは間違いであるかなどの判断ができなくなっている。 しかも、岸田の仕事は他のものについても似た例が多い。エダヒゲムシ類の場合、彼が記載したものはその記述が曖昧で、属と種の特徴をはっきり示せていないだけでなく、種そのものの特徴をしっかり書けていないうえ、タイプ標本も残っていないため、後にそれがどの種であるかの判断ができない。それくらいなら、記載しないでくれたほうが良かったとの声すらある。 その上でも、岸田の人物評は悪くない。八木沼も青木も、岸田との関わりについて、常に先輩としてきわめて親切で、後進の指導に熱心で心配りの行き届いた人であったように語っている。岸田はクモ学研究の道を切り開いた偉大なパイオニアであり、その苦労も並大抵のものではなかった。 岸田の人生そのものも紆余曲折が多く、その経過において様々な資格を苦労して獲得していった。うわさでは習字の先生の資格も持っていたとも。
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