森野家の人々
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 13:36 UTC 版)
森野熊虎(もりの くまとら) 演 - 風間杜夫 ニシン漁師の網元。一人称は「おら」、時々「俺」。政春に対しての二人称は、政春が単独で行商にきた時点では、政春の名字「亀山」から「カメ」と呼んでいた。政春がエリーたちと引っ越してきた直後の時点までは、政春への呼び方は「カメ」であったが、以降はエリーに習って「マッサン」と呼ぶようになる。 元は会津藩士の息子であり、5歳時に逆賊として故郷を追われ北海道に渡る。リンゴ農業が上手くいかず酒に溺れる父を嫌い家を出て以後、居住地を点々と渡り歩いた末に北海道に戻り余市に居を構えた。 小樽にて、偶然、鴨居商店のウイスキーの営業でやって来た政春と出会い意気投合、余市の自宅に招き、政春の売れ残ったウイスキーをすべて買い上げる。 2年後、政春がウイスキー工場開業に向けて余市を訪れ再会した際には、ニシン漁の不漁により多額の借金を抱え困窮し人々から距離を置かれていた。故郷のない自らの経験から子供たちに故郷を遺したい思いと、政春の開業に夢を託し、家の敷地を政春の工場建設に譲渡する。 1949年に娘のハナが俊夫と共に竹原へ移住すると決断したことから激怒。「親子の縁を切る」と告げたが、当のハナの意志が固く泣く泣く広島移住を認めることになった。 出立当日。旅姿で現われ「生まれ故郷の会津を見せてやる」と途中まで同行することを告げ、旅立って行った。 森野ハナ(もりの はな) → 八澤ハナ(やざわ はな) 演 - 小池栄子(少女期:荒田悠良) 熊虎の娘。一人称は「おら」。政春と出会った当初、職業は小学校教員であったが、2年後の時点では教員を辞め、叔父の農園の手伝いをしている。母を早くに亡くしたため、弟の一馬にとっては母親のような存在でもある。働き者でしっかり者。生前の母が父をとても愛していたことを知っている。 政春が開業後は、エリーとともに工場の賄いをしたり、エマに漢字を教えたりする。 俊夫とは相思相愛でありながらも、互いに素直になれずに反発していた。他の男性との縁談が舞い込んだことをきっかけに自ら告白をして、俊夫の気持ちを尋ねる。政春とエリーの後押しもあり、俊夫と想いが通じ合い結婚する。 ラジオ番組に政春が出演中、一緒に聴いていた俊夫の様子がおかしかったことから問いただしたところ、彼が「竹原へ帰り旦那さま(政志)の酒蔵を守りたい」と切り出したことで夫と共に竹原への移住を決意。 熊虎に打ち明けたが、猛反対されてしまうものの最後は俊夫を選ぶ。それからしばらくして俊夫と共に旅立って行った。 森野一馬(もりの かずま) 演 - 堀井新太(幼少期:永井智悠) 熊虎の息子。一人称は「おら」→「俺」。北海道大学進学を目指していたが、家の貧困により挫折しハナとともに叔父の農園の手伝いをする。母や家族に迷惑をかけ博打的な生き様をする父を嫌っていたが、家族を思う父の本心を知り和解する。 その後、開業した政春の工場で働く。 1943年には、海軍からの指示で酒石酸を採取するためのぶどう酒製造を任されるようになるが、銃後にいることを苦悩するようになる。同じ頃、職場から非難されていたエマと、互いに悩みを打ち明けるようになり、やがてエマから愛を告白される。当初反対するエリーに気兼ねしエマと距離を置こうとするが、やがてエリーが恋愛を認め再びエマと距離を戻した直後、赤紙が届き、皆に惜しまれつつ出征する。出征直前、政春に学生時代の先輩と協力して密かに育てていた、ウイスキーの元となる大麦を託した。 出征前に政春から「一番弟子」として認められる(ただし、実際には鴨居欣次郎の息子・英一郎が一番弟子である)。 1945年2月20日に中部太平洋の戦場にて帰らぬ人となる。 戦死してから3年後、自身が生前政春に託していた大麦で熟成していたウイスキーの原酒から、国中の注目を集める3級ウイスキー・「余市の唄」が完成した。 森野シノ(もりの しの) 演 - 飯塚涼子 熊虎の妻で、進の姉。1912年(大正元年)に他界している。
※この「森野家の人々」の解説は、「マッサン」の解説の一部です。
「森野家の人々」を含む「マッサン」の記事については、「マッサン」の概要を参照ください。
- 森野家の人々のページへのリンク