桂離宮の「発見者」
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「ブルーノ・タウト」の記事における「桂離宮の「発見者」」の解説
タウトは自分の日記(1935年11月4日)に「私は桂離宮の『発見者』だと自負してよさそうだ」と書き残している。一般的にタウトが初めて桂離宮の真価を評価したと言われているが、事実とは異なっており、「伝説」でしかないと言える。タウトの著述に関してさまざまな誤解が広まっていることは否定できない。 事実と異なっている点は3つある。1つ目は、タウト以前にも桂離宮を高評価した日本人はそれなりの数に達していたという点である。2つ目は、観光案内書の紹介の大きさを見る限り、桂離宮の知名度はタウト来日以前から一般的に高かったと考えられる点である。3つ目は、専門家を越えて一般大衆レベルにまで桂離宮のモダニズム建築としての解釈が浸透したのは、タウト滞日中の1930年代中期、あるいはその多くの著書が翻訳されて出版された1940年代のことではなく、1960年代以降とかなり遅くなってからのことである。 タウト以前に桂離宮を評価する日本人が全く、あるいはほとんどいなかったということはなく、むしろ専門家の間ではかなり早くから高く評価されていた。ただ、評価していたのは建築家ではない。明治・大正時代、桂離宮を研究・評価したのはもっぱら庭園関係者と茶人だった。庭園という観点からの桂離宮評価だったからか、この時代の建築家は桂離宮にはあまり興味を示さず、建築家の評価は低かった。しかし、庭園関係者が桂離宮を絶賛していたのは確かである。 流れが変わったのは、昭和時代に入ってからである。例えば、1928年(昭和3年)5月には桂離宮の実測測量が始まっている。また、1920年代半ばから世界的にモダニズム建築が流行し、日本でもその流れに乗った建築家の1群が現れた。桂離宮は実際にはデザインに凝った建築であり、モダニズムからは遠い要素を多分に含んだ建物で、昭和以前は、そのように理解した論もそれなりに多かったものが、モダニズムが流行し始めると、モダニストたちは桂離宮を、モダニズム建築という点を強調し、モダニズムに合わない部分を無視して評価し始めるようになった。 一方、タウトは桂離宮を純粋なモダニズム建築としてから高評価したのではなく、それ以外の要素も多分に含まれていた。実際にタウト自身が、「「すべてすぐれた機能を持つものは、同時にその外観もまたすぐれている」という私の命題は、しばしば誤解された」と書いているように、タウトの桂離宮評価は、かなり誤解されて広まったと言える。 1929年、岸田日出刀は写真集『過去の構成』を著し、その中で桂離宮をモダニズム建築の観点から激賞した。『過去の構成』はモダニズム建築家や若い建築家の間で評判となった著書で、堀口捨巳、丹下健三らがその内容を誉めている。しかし、桂離宮の評判は専門家の狭い領域から出ることはなく、専門家集団の中で共有されただけだった。その点に関しては、タウトが専門家の領域を越えて、桂離宮の価値を広めた点は間違いがない。問題は、その広がった領域、広がり方の程度である。 タウトの滞日中、その著書が読まれた層は一般大衆ではなく、古美術や古建築を専門とした読書人、あるいは読書人を中心とした当時のインテリ層であり(例えば和辻哲郎のような建築を非専門とする人々)、社会全体からするとその数が多かったわけではない。タウトが喚起した桂離宮ブーム、桂離宮の「発見」というのはこうした読書界の人間の意識を変えた程度のもので、一般大衆までの広がりを持った再認識ではなかった。ただ、彼らは出版メディアに頻繁に登場したので、建築家よりも影響力が強かった。 タウトがこれらの読書人に大きな影響を与えたのには、いくつかの理由があったらしい。1つには、タウトが文章に腕の立つ建築家だったことがある。例えば堀口捨巳はタウトの文章力を評価している。また、日本主義・日本精神という言葉が流行したように、ナショナリズムの高揚していた1930年代にあって、日本文化を称揚する西洋人が現れた事は、彼らにとって心地よいことだったこともあるらしい。特にタウトが国際的に知名度のある西洋人だった点は大きかった。 もう1点は、タウトの日本文化称賛の論理が、ステレオタイプ化した日本文化論と同一のものとして理解された点にあったようである。タウトが日本文化を賞揚した文脈は、明治中期から既に日本国内で流通していた日本人論・日本文化論のステレオタイプ化した論理と必ずしも同じだったわけではなく、そこからのずれを多分に持っていたが、実際には、タウトは、ステレオタイプ化した日本人論・日本文化論を繰り返したものとして受容された。
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