桂陵・馬陵の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 09:27 UTC 版)
太公の2代後、子の桓公は臨淄に稷下学宮を開き、各国の賢人を招き入れた。これは威王や宣王の代にも続き、東方の学問の中心地となった。子の威王が即位し、鄒忌を相国に任命し政治を改革させた。田忌(中国語版)や孫臏を将軍とし、軍事力も強大化させた。 前353年、当時の最強国の魏は趙の国都の邯鄲を攻めた。趙は斉に救いを求め、邯鄲の落城とともに出兵して、桂陵で魏を大敗させた。この大敗により、韓は斉と組み、魏と敵対した。しかし、韓は魏と五度戦って五度負けた。逆に魏に滅ぼされそうになった韓は斉に援軍を求めた。魏と斉は激突した。魏軍総大将の太子申(中国語版)は捕虜となり、龐涓は戦死させるという大勝であった。これにより魏は衰退していく。
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