柔術から柔道成立まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 16:24 UTC 版)
「柔術#歴史」も参照 柔道の歴史 古くから、12世紀以降の武家社会の中で武芸十八般と言われた武士の合戦時の技芸である武芸が成立し、戦国時代が終わって江戸時代にその中から武術の一つとして柔術が発展した。1877年(明治10年) に、嘉納治五郎は天神真楊流の福田八之助に入門し、当身技を中心に関節技、絞技、投技を含んだ捕手術を由来とする立合や居捕の体系を持ち、乱捕技としての投げ技、固技も持つ天神真楊流を稽古した。また、組討を基とし捨身技を中心とした体系と乱捕を伝えていた起倒流柔術を稽古した。天神真楊流と起倒流柔道の乱捕技や形の技法を基礎に、起倒流の稽古体験から「崩し」の原理をより深く研究して整理体系化したものを、これは修身法、練体法、勝負法としての修行面に加えて人間教育の手段であるとして柔道と名付け、明治15年(1882年)、東京府下谷にある永昌寺という寺の書院12畳を道場代わりとして「講道館」を創設した。もっとも、寺田満英の起倒流と直信流の例や、滝野遊軒の弟子である起倒流五代目鈴木邦教が起倒流に鈴木家に伝わるとされる「日本神武の伝」を取り入れ柔道という言葉を用いて起倒流柔道と称した例 などがあり、「柔道」という語自体はすでに江戸時代にあったため、嘉納の発明ではない。嘉納は「柔道」という言葉を名乗ったが当初の講道館は新興柔術の少数派の一派であり、当時は「嘉納流柔術」とも呼ばれていた。講道館においての指導における「柔道」という言葉を使った呼称の改正には、嘉納自身の教育観・人生観、社会観、世界観などが盛り込まれており、近代日本における武道教育のはじまりといえる。柔道がまとめて採用した数々の概念・制度は以降成立する種々の近代武道に多大な影響を与えることになる。嘉納のはじめた講道館柔道は武術の近代化という点で先駆的な、そしてきわめて重要な役割を果たすことになる。その歴史的影響力、役割の大きさから柔道は武道(日本武道、日本九大武道<日本武道協議会加盟九団体>)の筆頭として、名を連ねている. 第二次大戦後、日本における武道禁止令の解禁に先んじて、戦前1933年までにドイツにおいて結成されていたヨーロッパ柔道連盟が、1948年にイギリスのロンドンで再建するなど日本国内外の働きかけもあり、日本においても柔道の稽古や試合は次第に再開されていき、1950年、柔道は学校教育における再開を果たす。
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