柔術世話掛
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柔術世話掛は撃剣世話掛より4年遅れ、1883年(明治16年)に発足した。1882年(明治15年)秋、警視庁は久留米の柔術家下坂才蔵に初代柔術指南役(世話掛)招聘依嘱の書簡を送り、下坂から推薦された久富鉄太郎(関口流)、仲段蔵(関口新々流)、上原庄吾(良移心頭流)、中村半助(良移心頭流)が翌年3月に上京したのが最初である。その年の1月、各警察署へ「巡査一同は撃剣同様、柔術を修業するように」との内達が出された。柔術世話掛によって警視流柔術の形が制定される。 当時柔術界の新興勢力であった講道館柔道が警視庁武術大会に出場したことは小説『姿三四郎』などでも知られる。講道館からは西郷四郎、山下義韶、横山作次郎、富田常次郎、有馬純文、岩崎法賢、川合慶次郎、宗像逸郎、竿代文蔵、大坪克和、小田勝太郎、吉村新六らが出場し、主に揚心流戸塚彦介の門人と試合をした。この大会で2、3の引き分けの他は講道館が勝ったことから、講道館柔道が警視庁に採用されることとなった。 山下義韶は大正時代に「警視庁捕手ノ形」制定に尽力し、より犯人を捕らえることに適した技法を編み出した。
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