果物会社の活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 15:31 UTC 版)
「ホンジュラスの歴史」の記事における「果物会社の活動」の解説
詳細は「ホンジュラスにおけるバナナ生産(英語版)」を参照 自由派の政府は鉱業と農業の生産拡大を目指し、1876年以降現地のビジネスと外国資本に土地と免税権をばらまくようになった。特に鉱業が重要であり、また新政策がバナナ輸出が増大した時期と重なった。バナナ産業は1870年代にイスラス・デ・ラ・バイアで始まり、1880年代には中小の農家でも盛んに行われるようになった。自由派政府が提供した利権により米国資本はまず海運会社として、続いて鉄道会社とバナナ生産会社として参入した。米国の会社は巨大なプランテーションを作り、人口密度の高い太平洋海岸、中米諸国などから輸入した労働者を雇用した。これらの会社は雇用にカリブ海の英語圏(英語版)住民を優先した。結果として残ったのは飛地経済(英語版)であり、主な会社はクヤメル・フルーツ、スタンダード・フルーツ、ユナイテッド・フルーツの3社である(うちユナイテッド・フルーツは1930年にクヤメルを吸収合併した)。 1899年、ニューオーリンズに本社を置いているヴァッカロ・ブラザース・アンド・カンパニー(英語版)(後のスタンダード・フルーツ)という果物会社は1899年にホンジュラスに訪れ、ロアタン島でココナッツ、オレンジ、バナナを購入した。ニューオーリンズで果物の販売に成功すると、同社は業務をホンジュラス本土に移った。1901年、 ヴァッカロ兄弟はラ・セイバとサラド(Salado)に事務所を設置、やがてボカ・セラダ(Boca Cerrada)からバルファテ(英語版)まで、80kmに近い海岸線上のバナナ産業を支配するに至った。1900年、米国の貿易商サミュエル・ザムライ(英語版)とユナイテッド・フルーツはホンジュラスに進出、バナナのプランテーションを買い取った。1905年、ザムライは単独でプランテーションを購入するようになり、1910年までに5,000エーカーのプランテーションを積み上げた後クヤメル・フルーツ(英語版)を開いて独立した。この2社はその富と強力なつながりにより、ホンジュラス政府に絶大な影響力を与えるに至った。 しかし、1910年にユナイテッド・フルーツがホンジュラスに進出すると、会社間の競争が激化した。ユナイテッド・フルーツは1912年までにスラ盆地(英語版)のテラ(英語版)からエル・プログレソまでの鉄道敷設権とトルヒーヨ(英語版)からフティカルパ(英語版)までの鉄道敷設権という2つの利権を買取した。1913年、ユナイテッド・フルーツは鉄道利権の管理会社としてテラ鉄道会社を設立、直後にトルヒーヨ鉄道会社を設立した。ユナイテッド・フルーツは鉄道会社を通じてホンジュラスのバナナ貿易を支配したのであった。 1899年の国勢調査において、ホンジュラス北部が数年間バナナを輸出していること、プエルト・コルテスからラ・セイバまでの海岸線とサン・ペドロ・スーラのような内陸部まで1,000人以上(主に小作農)がバナナを生産していたことが示された。果物会社は広大な土地を獲得、特にはバナナ産業に従事している小領主を廃業に追い込むこともあった。さらに、ジャマイカやイギリス領ホンジュラス(現ベリーズ)から多くの労働者を連れ込み、プランテーションで働かせたか下級管理者として働かせた。果物会社が西インド諸島からの労働者を選んだ理由は彼らが英語を話せることと、ホンジュラス人より高等な教育を受けたことが多いためだった。西インド人の流入により同地域の人口構成が変わり、その状況が外国による占領に見えたことと、アフリカ人を先祖とする西インド人への差別意識により、社会緊張が高まった。 バナナ貿易がもたらした富と外国人、特に北米人からの影響力の大きさにより、1896年から1897年まで一時的にホンジュラスに逃亡した米国の作家オー・ヘンリーは小説『キャベツと王様(英語版)』でホンジュラスをモデルとした架空な国を創作したとき、バナナ共和国という造語を使用した。1912年までに、ホンジュラスのバナナ貿易がクヤメル・フルーツ、ヴァッカロ・ブラザース、ユナイテッド・フルーツの3社による寡占状態になった。3社とも垂直統合を行っており、自社で土地、鉄道会社、艦船(一例としてはユナイテッド・フルーツの「グレート・ホワイト艦隊」(Great White Fleet))を所有した。さらに鉄道への土地助成金を通じてカリブ海岸の一等地を支配するようになり、ラ・セイバ、テラ、トルヒーヨなどの沿岸都市、内陸のエル・プログレソ、ラ・リマ(英語版)などは会社の私有都市に近い状態に陥った。 その後の20年間、米国政府は中米の紛争、反乱、革命への対処に追われた。これらの紛争の裏には隣国の政府や米国の会社からの支持などもあった。そして、カリブ海のいわゆるバナナ戦争の一環として、ホンジュラスには1903年、1907年、1911年、1912年、1919年、1924年、1925年に米軍の介入を受けた。例えば、1917年にはクヤメル・フルーツが鉄道をグアテマラとの領土紛争地帯に伸ばした。
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