東尾監督時代
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1995年 東尾修が監督に就任し、デストラーデが復帰したが、石毛や工藤といった黄金期の主力メンバーが次々とダイエーに移籍し、戦力が低下、残った主力もベテランが増え、成績が低迷、序盤は優勝争いに加わっていたが、イチローを擁する首位オリックスの独走を許す。また、ロッテにも抜かれ、オリックスと12.5ゲーム差、ロッテと0.5ゲーム差の3位に終わり、連続優勝も途絶えた。阪神タイガースに所属していた真弓明信が現役を引退した。真弓の引退により、福岡時代のライオンズに所属した選手が全員引退した。辻が戦力外通告され、球団はコーチとして慰留したが、現役続行を希望したため、退団してヤクルトに移籍。 1996年 序盤から低迷し、Bクラスをさまよっていたが、2年目の西口文也が最多勝のキップ・グロス(日本ハム)より1勝少ない16勝を挙げ活躍。6月に渡辺久信がノーヒットノーランを記録したがチームの状態は上がらず黄金期を支えていた郭・石井丈裕が未勝利に終わり田辺・佐々木の絶不調などあったが、終盤の若手が奮起し猛攻で最終的には62勝64敗4分、負け越しではあったが2年連続の3位。不動の4番として活躍した清原がシーズン後にフリーエージェントで巨人に移籍した。 1997年 松井稼頭央・大友進・髙木大成・石井貴・豊田清といった若手の台頭もあり2連覇中のオリックスを突き放し、マジック1で迎えた試合では鈴木健のサヨナラ本塁打で3年ぶりにリーグ優勝を果たす。しかし、日本シリーズではヤクルトに1勝4敗で敗れ、日本一を逃した。 1998年 西武ライオンズ球場がドーム球場化工事の一部を施され、西武ドームに改称。チームは7月に首位日本ハムに10ゲーム差となり、その後日本ハム、ダイエー、近鉄との熾烈な首位争いを制しリーグ2連覇を達成する。日本シリーズでは横浜ベイスターズと対戦し、下馬評は西武有利と予想されたが、2勝4敗で敗れた。ドラフトではこの年の高校野球春夏連覇を果たした横浜高校の松坂大輔を1巡目で指名し、日本ハム、横浜との競合の末に抽選で交渉権を獲得した。 1999年 西武ドームのドーム球場化工事が完成。ルーキーの松坂は1年目にして最多勝となる16勝を挙げ、新人王に選ばれる。松坂への関心もあって観客動員数とテレビ中継が増加した。しかし、チームはこの年に優勝したダイエーに一歩及ばず、ダイエーと4ゲーム差の2位でシーズンを終えた。 2000年 前年に続き、ダイエーに一歩及ばず、首位ダイエーと2.5ゲーム差の2位。しかし、オリックスには6年ぶりに勝ち越した。ドラフトでは系列企業のプリンスホテル硬式野球部から 大沼幸二:投手(1位→横浜・DeNA) 水田圭介:内野手(松坂世代:7位→阪神→中日→ヤクルト) 福井強:投手(松坂世代:ドラフト8位) の3人を獲得。松坂世代の2人は「高卒で社会人野球に加入した選手は3年間ドラフト指名不可能」の規則で2001年まで指名不可能だったが、プリンスホテル硬式野球部の廃部に伴い、救済措置・特例でプロ入り。 2001年 松坂が3年連続の最多勝となる15勝、西口が14勝、来日2年目の許銘傑が11勝を挙げ活躍するも、優勝した近鉄と6ゲーム差、2位のダイエーとは3.5ゲーム差の3位と3年連続で僅差で優勝を逃した。この年を最後に東尾が監督を勇退し、オフに伊東勤が後任の監督として候補に挙がったが、伊東が現役続行を希望したため、伊原春樹作戦・守備走塁コーチが監督、伊東が総合コーチ兼捕手に昇格した。10月6日にはミゲール・デルトロが事故死、現役中の選手が死亡する事例は2000年の藤井将雄(当時ダイエー)以来の悲劇となった。ドラフトでは後に球界を代表する選手となる中村剛也と栗山巧を指名。
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