本姓について
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寛政4年(1792年)成立の『伊達世臣家譜』では、志田中目氏は本姓を「源」として申告しており、家祖・寺尾大膳正以来大崎氏に仕えていたが、それ以前については不詳であるとしている。 しかし、長禄3年10月29日(1459年11月24日)付の旦那売券(御師が檀那職を他者に売却する旨の文書)に「奥州渋谷中目殿」という記載があることから、平成『古川市史』では、中目氏を河内四頭渋谷氏一族の惣領家と見ており、この分析に従えば、渋谷氏は秩父平氏の一員であるから、中目氏も本来は平姓ということになる。また『伊達世臣家譜』にある「寺尾」という名字も、相模国渋谷荘寺尾郷(現:神奈川県綾瀬市寺尾本町など)に由来する渋谷氏分家の名字である。
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本姓について
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日光東照宮に残る家康の口宣案等はすべて源家康となっており、徳川氏が源氏を継続的に称していたことになっているが、これは三代将軍徳川家光の代である1645年(正保2年)に、散逸した分を補填したとして改変されたものであると見られている。 永禄9年(1566年)の叙爵は実際には、「系図発見」の経緯もあって藤原家康としておこなわれており、この時点では藤原氏を称していた。笠谷和比古は源氏の棟梁である足利将軍家に家康がつてを持たなかっただけでなく、将軍家が当時当主不在であるという異常事態を迎えており、取り次ぎを行った近衛前久が官位奏請を行うためには藤原氏一門であるほうが好都合であったという指摘を行っている。 以降、家康の姓氏使用についてはかなり恣意的であり、藤原氏や源氏をその度毎に使い分けるなどしている。徳川氏が源氏であるという見解が明確に整えられたのは後のことであり、源氏の名家である吉良氏から源義国からの系図を借り受けてのことであった。これを近衛前久が発給時期不詳の書状で「将軍望に付ての事」と指摘していることもあり、家康の源氏名乗りは将軍職就任を目的とした、1603年(慶長8年)の征夷大将軍就任直前のものであるという見解が渡辺世祐や中村孝也の研究以来定説となってきていた。 ただし同時代史料によると、松平氏3代の信光は加茂朝臣(賀茂)姓を名乗ったものがあり、松平氏の葵紋も賀茂氏とのつながりを伺わせるものもあることなどから、実際には賀茂氏の部民であるという指摘も行われている。清康の時代にもすでに安祥松平氏は清和源氏(源姓世良田氏)と名乗ったこともあり、家康自身も今川からの独立直後である永禄4年(1561年)に発給した菅沼氏への安堵状にて「源元康」と署しており(「菅沼家譜」『久能山東照宮所蔵文書』)、永禄4年から6年の間に、5点の正文を含む6点に「源氏」の署名がみられる。 米田雄介が官務である「壬生家文書」にある口宣を調査したところ、天正14年(1585年)の権中納言就任以前の口宣はすべて藤原姓であるが、天正15年(1586年)などは不明であり、天正20年(1592年)9月、徳川家を清華の家格とする「清華成り」の発給の際には源姓となり、以降一貫して源姓を称していた事が明らかになっている。米田は源氏改姓を天正20年と見ているが、笠谷は『聚楽行幸記』で家康が「大納言源家康」と署名したという記事を指摘し、天正16年の聚楽第行幸頃の時期であると見ており、足利義昭の出家による将軍家消滅が契機であったと見ている。以降の現存する発給文書でも源姓となっている。 1586年には秀忠が豊臣氏を下賜されており、家康とともに羽柴の苗字を許されているが、当時称豊臣・羽柴の許可は大名のみならず医師等まで幅広く行われていた。
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