本妙寺とハンセン病
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 14:25 UTC 版)
「本妙寺 (熊本市)」の記事における「本妙寺とハンセン病」の解説
かつて本妙寺の参道にはハンセン病患者が並び、参拝者に喜捨を要求していた。その起源は不詳であるが、境内の碑文で病気祈願の記載があり、江戸時代とも考られる。はっきり文書で記載されたのは1871年(明治4年)である。 その後、寺は西南戦役で一部炎上したが、患者は再び集まり、近くの集落で自活していた。ハンナ・リデルやコール神父などのハンセン病患者救済活動や、聖母会による病院設立などもあったが、国による九州療養所の設立後も患者は療養所と本妙寺集落の間を行き来した。そして、1940年(昭和15年)7月9日に本妙寺事件として知られる患者の強制収容があった。これは熊本ではあまり熱心でなかった、無癩県運動の一環として、また近づいてくる戦争準備への一環と考えられている。潮谷総一郎によると、患者の多くは相愛更生会という秘密結社に入っていた。毎年5円を出して、寄付金の趣意書、奉加帳を交付して貰い、定められた自分の縄張りに年2回出張して寄付を募った。また、厚生省、県知事、学務課、社会課の証明書、本妙寺の住職の感謝状を偽造した。そして北海道から台湾朝鮮に至るまで、2名一組で寄付を強要する、やらないと、「伝染させるぞ」と居直る。人々は癩の恐怖と、いかめしい厚生省や、県知事等の証明書にたいして、金銭を出したのであった。本妙寺事件の一部はその解決のためであった。相愛更生会の一部は草津楽泉園の特別病室に入っていたが、非常な人格者もおり、秘密結社というより、自治組織と考える人もいる。本妙寺部落役員5名と相愛更生会幹部4 名は特別病室に57日収容されていた。また、本妙寺らい集落に居住する患者と九州療養所や星塚敬愛園などの長い腐れ縁を絶つためでもあったろう。強制収容後、患者は草津楽泉園に移送され、いわゆる特別病室,別名重監房に入獄した。 詳細は「本妙寺事件」を参照 「特別病室」も参照 強制収用後の患家は燃やされたが、患者が時々参道に並ぶのは終戦後まで続いた。
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