松平氏の本姓について
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松平信光は賀茂氏あるいは源姓を称していたことが知られる[要出典]。元来賀茂姓であったのを源姓に改めたものと見られる。三つ葉葵の家紋もまた賀茂氏に由来するともみられている。7代清康は清和源氏(源姓世良田氏)と名乗ったこともある。9代当主となった家康は、今川からの独立直後である永禄4年(1561年)に発給した菅沼氏への安堵状において「源元康」と署しており(「菅沼家譜」『久能山東照宮所蔵文書』)、永禄4年から6年の間に、5点の正文を含む6点に「源氏」の署名がみられる。 家康の徳川改姓と叙任の際、吉田兼右が万里小路家の文書を調査した結果、新田氏系得川氏が二流に分かれ、一方が「藤原姓」となったという先例が発見された。この件には近衛前久が関与しており、その経緯を子である近衛信尹に送った書状が現存している。このため家康の叙爵は「藤原家康」として行われ、以降家康も藤原氏を名乗った。笠谷和比古は源氏の棟梁である足利将軍家に家康がつてを持たなかっただけでなく、将軍家が当時当主不在であるという異常事態を迎えており、取り次ぎを行った近衛前久が官位奏請を行うためには藤原氏一門であるほうが好都合であったという指摘を行っている。 米田雄介が官務である「壬生家文書」にある口宣を調査したところ、天正14年(1585年)の権中納言就任以前の口宣はすべて藤原姓であるが、天正15年(1586年)などは不明であり、天正20年(1592年)9月、徳川家を清華の家格とする「清華成り」の発給の際には源姓となり、以降一貫して源姓を称していたことが明らかになっている。米田は源氏改姓を天正20年と見ているが、笠谷は『聚楽行幸記』で家康が「大納言源家康」と署名したという記事を指摘し、天正16年の聚楽第行幸頃の時期であると見ており、足利義昭の出家による将軍家消滅が契機であったと見ている。以降の現存する発給文書でも源姓となっている。
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