松平氏→今川氏→織田氏→今川氏→徳川氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 14:03 UTC 版)
「奥平貞勝」の記事における「松平氏→今川氏→織田氏→今川氏→徳川氏」の解説
享禄3年(1530年)5月、松平清康が八名郡の宇利城を攻めると、これに従軍。搦手門から攻め入り、功を挙げたという。その後、清康の横死(森山崩れ)で弱体化した松平氏から今川氏に転属した。ただし、当初は今川氏の影響力も不安定で天文6年(1537年)の河東一乱では、奥平貞勝は北条氏綱の調略の対象になっている。天文11年(1542年)、対織田信秀戦の小豆坂合戦では岡崎勢の与力に付けられる。天文16年(1547年)には今川氏と対立していた松平氏領の山中を嫡男の仙千代と弟の貞友に与えるという義元の判物を与えられるが、翌年には貞友が今川氏への反乱を起こして所領を没収されて貞勝に与えられている。 弘治2年(1556年)、前室の縁で水野信元からの織田家への誘いを受けると、これに応じ、今川氏を離反。さらに縁戚の田峯菅沼氏まで誘って蜂起した。ただし、大石泰史はこの蜂起の主導者は息子の定能で、貞勝は今川氏へ忠節を尽くしていたにも関わらず、一族の多くが定能に従ったために『諸家譜』などの後世の編纂物では貞勝が今川氏に離反したことにされていると指摘している。同年2月15日、自領から岡崎方面にある今川方・秦梨城への先制攻撃を敢行。秦梨城主・粟生将監永信を退散させた事に端を発し、鎮圧に派遣されてきた今川方の東条松平勢を貞勝の弟・久兵衛貞直が日近城での籠城の末に撃退する(日近合戦)。ひとまず優位に立っていた貞勝であったが、今川義元の軍令を受けた菅沼定村や本多忠俊といった東三河の諸将によって本格攻勢を受ける。同年8月には日近とは別方面で宝飯郡との郡境に近い雨山城への攻撃を防ぎ得ず、失陥してしまう(雨山合戦)。織田氏の援軍を満足に得られずに蜂起から半年程度で鎮圧されて、今川氏再属を余儀なくされた。再属に際し、弟・貞直を処分する事で離反の罪を赦免されている。 永禄3年(1560年)5月、今川義元の尾張侵攻に参戦。清康の孫・松平元康(後の徳川家康)の与力として、大高城への兵糧運び入れを支援するが、同月19日に今川義元の本隊が崩れると自領に退却した(桶狭間の戦い)。 その後、東三河の諸家が挙って松平氏へ転属する事となっても事態を静観。だが、宝飯郡で最後まで抵抗していた牧野氏でさえ転属するなど、今川氏の三河支配権回復が見込めない事態になったところで、ようやく家康へ転仕した。永禄11年(1568年)12月、徳川家康の遠江侵攻では、嫡子・定能に参戦させている。
※この「松平氏→今川氏→織田氏→今川氏→徳川氏」の解説は、「奥平貞勝」の解説の一部です。
「松平氏→今川氏→織田氏→今川氏→徳川氏」を含む「奥平貞勝」の記事については、「奥平貞勝」の概要を参照ください。
- 松平氏→今川氏→織田氏→今川氏→徳川氏のページへのリンク