松平武聰の上京問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/01 13:28 UTC 版)
戊辰戦争に際し、新政府は諸藩に対して恭順の意思表示を行って、藩主またはそれを代行できる身分の者(元藩主か世子)が上京して天皇に拝謁することが求められ、更に五箇条の御誓文が出された後は藩主もしくはその代理に公卿・諸侯による奉答書への署名をする事で、新政府下での藩の存続が保証された。この手続を行わない藩は例え実際に武力抵抗をしていないくても旧幕府に加担する「朝敵」とみなされ、反対に新政府軍との交戦などによって一旦「朝敵」とみなされた藩でも藩主が速やかに謝罪・謹慎をする事で、新政府から宥免を得てこの手続に参加することができた。 鶴田藩の場合、鳥羽・伏見の戦いを受けて、藩主である武聰が徳川慶喜の弟である事を理由に自主的に謹慎をしていたが、実際には長州征伐当時からの病気が回復していなかった。そこへ藩兵30名が竹中重固指揮下の旧幕府軍に参加していた事が判明したために同藩が朝敵とみなされる可能性が浮上した。この問題について2月28日に新政府から鶴田藩に対して恭順の証明として藩主自らの上京して謝罪をする事が命じられた。だが、武聰を上京させる事が不可能な病状で、世子である熊若丸(後の武修)も4歳の幼児で同じく上京不可能であった。このため、鶴田藩ではこのままでは自藩が朝敵として討伐されるとして、岡山藩・鳥取藩と相談の上で閏4月に家老3名の切腹をもって上京の延期を求める嘆願を提出した。新政府側も藩主・世子が上京できない事情は理解したものの、他藩との関係上、鶴田藩だけに上京免除の例外を認める訳がいかず、一段重い処分として閏4月15日に家老1名の切腹を命じる事になり、同日在京していた尾関隼人が切腹をした。5月10日、同藩に2万7800石が加増され、最終的に6万1千石の石高となった背景には、新政府が結果的には敵意がない鶴田藩に対して家老の切腹という厳罰を下さざるを得なかった事に対する埋め合わせの部分があったとみられている。なお、その後も武聰の病気は回復しなかったらしく、鶴田藩は全国で唯一手続の最終段階であった奉答書への署名を廃藩置県までに終える事が出来なかった。また、廃藩置県後の明治4年(1871年)8月23日に武聰が家族と共に東京へ移住した後も遂に皇居への参内は行われなかった。 明治2年(1869年)6月24日、版籍奉還により鶴田藩知事に就任する。明治4年(1871年)7月15日、廃藩置県により知藩事を免職となる。明治6年(1873年)3月23日、隠居して長男・武修に家督を譲る。明治15年(1882年)11月7日、41歳で死去した。
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