松平氏・本多氏時代とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 松平氏・本多氏時代の意味・解説 

松平氏・本多氏時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 22:37 UTC 版)

郡山城 (大和国)」の記事における「松平氏・本多氏時代」の解説

郡山城の戦いの後、水野勝成同年7月19日三河国刈谷から6万石移封し、荒廃した城郭修築行った石垣や堀の修復公儀普請とされ、本丸二ノ丸三の丸一部家中屋敷修復水野氏の手行われた水野勝成修復途中元和5年1620年8月備後福山転封となったその後松平忠明12万石入城した松平忠明郡山城復興取り組み二ノ丸屋形造営をはじめ、伏見城鉄門、一庵丸門、門、西門などが移築された。しかし松平忠明寛永16年1639年)に播磨姫路転封された。 次に郡山城入ったのが本多政勝で、15万石入部した。この時期本丸二の丸屋敷城門角櫓など城郭主要部分完成した武家屋敷町屋ともに発展し延宝年間には城下家数は4700軒、人口2万人を超え郡山城下の最盛期となった。しかし、寛文11年1671年)に本多政勝死去すると「九六騒動」という家督相続に伴う御家騒動起こった息子二人争い徳川幕府裁定入り二人に対して分割相続とされ、それぞれ転封となったその後明石藩から松平信之が8万石入城した。この時期延宝8年1680年城下町大火がおこり670軒が焼失した松平信之老中任命されると、江戸に近い下総古河藩加増転封となり、次いで本多忠平12万石入城したその後本多氏数代続いたが、本多忠烈若年相続理由5万石に減封とされ、家臣団大人数解雇および武家屋敷などの取り壊し行なわれた。さらに享保8年1723年11月27日忠烈8歳死去する本多氏御家断絶とされた。

※この「松平氏・本多氏時代」の解説は、「郡山城 (大和国)」の解説の一部です。
「松平氏・本多氏時代」を含む「郡山城 (大和国)」の記事については、「郡山城 (大和国)」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「松平氏・本多氏時代」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「松平氏・本多氏時代」の関連用語

松平氏・本多氏時代のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



松平氏・本多氏時代のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの郡山城 (大和国) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS