松平氏・本多氏時代
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「郡山城 (大和国)」の記事における「松平氏・本多氏時代」の解説
郡山城の戦いの後、水野勝成が同年7月19日三河国の刈谷から6万石で移封し、荒廃した城郭の修築を行った。石垣や堀の修復は公儀普請とされ、本丸と二ノ丸、三の丸の一部と家中屋敷の修復は水野氏の手で行われた。水野勝成は修復途中の元和5年(1620年)8月に備後福山に転封となった。その後松平忠明が12万石で入城した。松平忠明も郡山城の復興に取り組み、二ノ丸屋形の造営をはじめ、伏見城の鉄門、一庵丸門、桜門、西門などが移築された。しかし松平忠明も寛永16年(1639年)に播磨姫路に転封された。 次に郡山城に入ったのが本多政勝で、15万石で入部した。この時期に本丸、二の丸屋敷、城門、角櫓など城郭の主要部分が完成した。武家屋敷、町屋ともに発展し、延宝年間には城下の家数は4700軒、人口は2万人を超え、郡山城下の最盛期となった。しかし、寛文11年(1671年)に本多政勝が死去すると「九六騒動」という家督相続に伴う御家騒動が起こった。息子二人の争いに徳川幕府の裁定が入り、二人に対して分割相続とされ、それぞれが転封となった。その後、明石藩から松平信之が8万石で入城した。この時期の延宝8年(1680年)城下町に大火がおこり670軒が焼失した。松平信之が老中に任命されると、江戸に近い下総古河藩に加増転封となり、次いで本多忠平が12万石で入城した。その後本多氏が数代続いたが、本多忠烈が若年相続を理由に5万石に減封とされ、家臣団の大人数解雇および武家屋敷などの取り壊しも行なわれた。さらに享保8年(1723年)11月27日に忠烈が8歳で死去すると本多氏は御家断絶とされた。
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