最初の古典ドリフターズとクライド・マクファター
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「ドリフターズ (アメリカ)」の記事における「最初の古典ドリフターズとクライド・マクファター」の解説
多くのファンや音楽歴史家にとって「ザ・ドリフターズ」とはクライド・マクファターを意味するが、彼がそのグループと一緒だったのはわずか1年間である。マクファターは1950年から3年間、ビリー・ワード&ザ・ドミノスのリードテナーだった。ザ・ドミノスの成功の大部分を担っていたのがマクファターの甲高いテナーだった。1953年、アトランティック・レコードのアーメット・アーティガンがバードランドでザ・ドミノスの公演に顔を出して、マクファターが欠席であることに気付いた。これをジェリー・ウェクスラーは次のように回想している。 アーメットは銃弾の如くバードランドを飛び出して、住宅街へ直接向かった。 彼はクライドを探してバーからバーへと駆け回り、ようやく家具付きの部屋で彼を見つけた。その夜、アーメットはクライドが彼自身のグループを集めるというマクファターとの合意に達した。彼らはザ・ドリフターズとして知られるようになった。 ゴスペルと世俗的な音楽を組み合わせたいと考えたマクファターの最初の取り組みは、自分の教会合唱団Mount Lebanon Singersのメンバーで、ウィリアム・"チック"・アンダーソン、チャーリー・ホワイト、デビッド・"リトルデイヴ"・ボーグハン(テナー)、 デビッド・ボールドウィン(バリトン、作家ジェイムズ・ボールドウィンの弟)、ジェームス・"リンクル"・ジョンソン(バス) を集めることだった。1953年6月29日に4曲の収録セッションを終えて、アーティガンはこの組み合わせがうまく機能していないことに気付き、マクファターに別のラインナップを集めさせた。 2番目のグループには、第1テナーにビル・ピンクニー、第2テナーにアンドリュー・スラッシャー、バリトンにガーハット・スラッシャー、バスボーカルにウィリー・ファービー、そしてギターにウォルター・アダムスが入った。 これは1953年9月に「クライド・マクファター&ザ・ドリフターズ」名義のレコードレーベルで発売された、最初のメジャーヒット曲「Money Honey」を生みだしたグループである。マクファターはザ・ドミノスと一緒にいた時期にはかろうじて知られている程度で、彼は時々「クライド・ワード、ビリーの弟」に成りすますこともあった。別の例として、人々はビリー・ワードが歌唱していると思い込んでいた。 最初のセッション時にマクファターにより作詞された「Lucille」は「Money Honey」のB面に置かれ、同じ名義だが本質的には異なる(メンバーが全く違う)2グループによって2曲リリースされたシングルという、レコード業界では珍しいものになった。「Money Honey」は大成功を収め、ドリフターズの名声があっという間に高まっていった。 ファービーが事故に巻き込まれてグループから脱退した後、顔ぶれがさらに変更された。アダムスの死で、彼はジミー・オリバーに入れ替わった。ファービーは入れ替えにならなかったが、代わりに声域パートが変更になった。ガーハット・スラッシャーは第1テナーに、アンドリュー・スラッシャーはバリトンに移行し、ビル・ピンクニーはバスに変更された。このグループは、1953年11月の「Such A Night」、1954年6月の「Honey Love」、同年10月の「Bip Bam」、11月の「White Christmas」、1955年2月の「What'cha Gonna Do」など、さらに幾つかのヒットをリリースした。1954年3月にマクファターは徴兵令状を受け取った。ただし、彼がバッファロー (ニューヨーク州)に駐留していた当初は、しばらくの間グループを続けることができた。リリースの1年前に録音された「What'cha Gonna Do」が、ザ・ドリフターズのメンバーとしてのマクファター最後の公式録音ではあるが、彼の最初のソロリリース(「Everyone's Laughing」B面「Hot Ziggety」)は1954年10月のザ・ドリフターズでの最終セッションから採った作品である。徴兵奉仕を完遂後、マクファターは成功を求めてR&B16曲とポップヒット21曲を出すも、ソロでのキャリアは比較的短命だった。 マクファターは同グループの利益の大部分を分け前として要求しており、このことで彼はザ・ドミノスから疎遠にされた。しかし、彼は旅立つ時に自分の後継者に対してこれが続かないようにした。彼はグループでの自分の取り分を、マネージャーのジョージ・トレッドウェルと歌手サラ・ヴォーンの夫に売却した。その結果、ザ・ドリフターズは多くのメンバーを使い回すことになり、彼らの誰一人としてお金を沢山もらえずに週100ドル(2018年の935ドル相当)だけの給金を得ていた。マクファターは後にこの行動を後悔していると表明し、それが仲間のミュージシャンに不利益になるよう運命づけてしまったことを認めた。 マクファターは当初、自分の徴兵中にコンサートで主旋律を歌っていた元メンバーのデヴィット・ボーガンと交代になった。ボーガンの声はマクファターのと似ていたが、彼の奇行ぶりでは彼に仕事を任せることが難しく、アトランティック・レコード幹部の目には不適当に映った。ボーガンはやがてザ・ハープス(1955)結成のためグループを離脱(1958年に彼はビル・ピンクニーのオリジナル・ドリフターズに復帰する)し、ジョニー・ムーア(元ザ・ホーネッツ)が交代加入した。1955年9月に、この顔ぶれがR&Bで1位になるヒットのA面曲「Adorable」と5位になるB面「Steamboat」を録音した。1956年2月には「Ruby Baby」と「I Got to Get Myself a Woman」を続けてリリースした。 低給与はメンバー間の燃え尽き症候群の一因となっていた。ビル・ピンクニーはトレッドウェルにさらなる給金を要求した後に解雇された[要出典]。アンドリュー・スラッシャーも同様に離脱した。ピンクニーはリード歌手のボビー・ヘンドリックスとザ・フライアーズを結成するが、ボビーは翌年ザ・ドリフターズに参加するため離脱。ピンクニーはトミー・エヴァンズと交代になった。 Bnのチャーリー・ヒューズがアンドリュー・スラッシャーに代わって登場した。 ムーア、エヴァンズ、ガーハート・スラッシャー、そしてチャーリー・ヒュージズは1957年に「Fools Fall In Love」でトップ10(ポップ69位、R&B10位)のヒットを飛ばした。 1957年にムーアとヒュージズが徴兵され、ボビー・ヘンドリックスとジミー・ミレンダーが交代加入した。1958年初頭までに、ボビー・ヘンドリックス(リードテナー)、ガーハート・スラッシャー(第1テナー)、ジミー・ミレンダー(バリトン)、トミー・エヴァンズ(バス)、ジミー・オリバー(ギター)の顔ぶれだった。 このラインナップでは1958年4月に中位ヒット曲「Drip Drop」(ポップ58位)がリリースされた。 人気の低迷とともに、オリジナルドリフターズの終盤ではクラブシーンで働くことが減り、ザ・コースターズやザ・レイブンズの名義下でのギグという二役をこなしていた。1958年5月までに、ヘンドリックスとオリバーの両方が辞め、1週間のアポロ・シアター出演のためだけに復帰した。その週内に、メンバーの一人がアポロ劇場オーナーのラルフ・クーパーに相談を持ち掛け、トレッドウェルはグループ全員を解雇した。クーパーとの議論の後、トレッドウェルはファイブ・クラウンズ(Five Crowns)と呼ばれるグループを雇い、彼らを「ザ・ドリフターズ」と改名した。
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