日本鉄道本社の対応と被害者数の確定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/20 21:26 UTC 版)
「箒川鉄橋列車転落事故」の記事における「日本鉄道本社の対応と被害者数の確定」の解説
事故発生を受けて日本鉄道本社は10月8日に次のような広告を新聞に掲載し、各駅にも掲示した。 広告 昨七日矢板野崎間母来川橋梁ニ於テ旅客列車顛落ニ付被害者御親族ニテ同地ニ赴カルゝ向ハ停車場ニ御申出有之候ヘバ無賃乗車証御交付可致候也 社内向けには社長曾我祐準名義で、臨時列車を発しての救護に必要な人員の送付や被害者の取り扱いについての心得などの指示を発した。さらに曾我は10月9日、上野駅5時発の1番列車で宇都宮に向かい、神野病院と県立宇都宮病院に入院中の負傷者を見舞い、缶入りビスケットを見舞いの品として贈っている。続いて曾我は14時40分宇都宮駅発の列車で野崎駅に向かい、事故現場を視察した。このときは、転落して粉砕した状態の車体がまだそのままになっていた。その晩、宇都宮駅20時発の上り最終列車で、先に現場に出張してきていた久保運輸課長とともに帰京している。 日本鉄道本社は、箒川の激流に流されて行方不明になった乗客の存在が推定されたため第375列車の乗客総数について調査をした。各駅での切符発売状況を調査した上で総数を62名と算出したが、乗客が官設鉄道や甲武鉄道などの連帯切符を所持していることも考えられたため、この人数は確定の数字ではなかった(実際、死者のうち1人は神戸 - 青森間の2等切符を所持しているという事実があった)。 事故で犠牲となった人の遺体は、翌日8日に現場から約20キロメートル下流の湯津上村佐良土で1名、箒川が那珂川と合流した後の小川村で1名、さらに下流の烏山町で2名が発見され、同日夜までに17名の遺体が発見された。箒川に流された人で未発見の遺体があると推定されたため、10日の朝から数日間かけて栃木県警察部保安課長の指揮によって警官や消防組など70数名を3班に分けて動員し、箒川及び那珂川の両岸や河川中を徹底的に捜索した。この捜索では遺留品が数多く収集されたものの、結局遺体は発見されなかった。事故について栃木県警察部は、以下のような公告を発している。 本月七日午前11時上野発福島行下り汽車矢板野崎両駅間箒川鉄橋上に於いて河中に転落其溺死者追々発見候に付心当りの者は現場に就き又は矢板警察署へ申出て実見すべし この事故での最終的な死傷者数は、『日本鉄道株式会社沿革史』という資料によると「死者20名負傷者45名」と記述されている。ただし、佐々木冨泰は『続 事故の鉄道史』14頁で1931年(昭和6年)の33回忌に建立された慰霊の石塔婆に刻まれた故人の氏名や事故直後の11月に発行された『風俗画報』という雑誌の増刊『各地災害図会』に掲載された遭難者の住所氏名の記述をもとに、この死傷者数について疑問を呈している。 なお、『各地災害図会』によると死傷者数は次のとおりとなる。 第375列車の乗客数収容時にすでに死亡収容後死亡死亡者合計重傷者軽傷者負傷者合計遭難者数合計16名 3名 19名 6名 30名 36名 55名
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