日本初の王座統一戦へ
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「井岡一翔 対 八重樫東戦」の記事における「日本初の王座統一戦へ」の解説
八重樫東が2011年10月24日に世界王座を獲得した控室で、大橋ジムの会長・大橋秀行は井岡一翔との統一戦の構想を発表した。井岡一翔が2011年12月31日にヨードグン・トーチャルンチャイ(タイ)に1回TKOで2度目の防衛を成功させると、井岡ジムのプロモーターである井岡一法は2012年1月6日に大橋ジムに直接出向き、異なる統括団体の王座を持つ2人の世界王者による王座統一戦へ向けての交渉はここから始まった。「いち挑戦者として挑むWBAの世界戦でもいいから戦いたかった」という井岡一翔自身の強い希望があった。 2012年1月25日、東京ドームホテルで行われた2011年度の年間優秀選手表彰式の祝辞では、日本プロボクシング協会会長を務める大橋が「今年は日本人同士の統一戦が行われるでしょう」とスピーチした。この祝辞の中では選手名は公表されなかったが、授賞式後には大橋も、同席していた井岡一法も互いが前向きに交渉を進めていることを認めていた。授賞式では表彰された井岡一翔と八重樫東が固く握手をかわし、翌日発売のほとんどのスポーツ紙が2人の写真を掲載し、この経過を伝えた。しかし、両選手のオプション(興行権)をそれぞれの前王者の陣営が握っていたため、まずはこれを買い取るか待機させることが前提となっていた。2012年2月18日に催された井岡の2度目の防衛祝賀会では「日本初の統一戦に向けて動いている」ことを井岡サイドが明らかにしていた。 この対戦の実現へ向けた交渉の過程では興行権をどちらが持つかということに加え、井岡の試合の中継権がTBSテレビ (TBS) ・毎日放送 (MBS) 系に、八重樫の試合中継権がテレビ東京系にそれぞれあったこと、またWBAとWBCでは世界タイトル戦の公式ルールが相違するという問題もあったが、両陣営の熱意が実って合意に至り、2012年4月9日にザ・リッツ・カールトン大阪で記者会見を開いて、6月20日に大阪府立体育会館を会場とし、TBS系列で試合を中継することなども併せて、井岡ジム主催による井岡対八重樫の世界王座統一戦の開催が発表された。困難を乗り越えて対戦を実現させた両陣営に対して日本ボクシングコミッション (JBC) 評議員・共同通信社編集委員などを務める津江章二は、「BODYMAKERコロシアム(当時の大阪府立体育会館の命名権名称)が熱狂に包まれるのは必至で、高いハードルを乗り越えて決戦を決めた両陣営の英断に素直に拍手を送りたい」と賛辞を贈っている。 また、井岡ジム会長の井岡弘樹と大橋ジム会長の大橋秀行は1980年代後半から1990年代前半にかけて日本のトップボクサーとして知られ、しかもいずれもWBC世界ミニマム級王座(初代・井岡、第4代・大橋)の保持者でもあり、現役時代には『ワールド・ボクシング』誌の特集で「ファンの見たい好カード」の1位になるなど対戦を期待されたこともあった。これを材料に大橋らはさらに注目を喚起し、この試合は双方の弟子同士の「代理戦争」とも言われた。 日本人世界王者10人の勝敗予想では具志堅用高、内藤大助ら6人が井岡、4人が八重樫の勝利を支持した。また、日刊スポーツの読者予想では、井岡勝利77.6%(KO45.8%、判定31.8%)に対し、八重樫勝利は19.4%(KO10.7%、判定8.7%)、ドローが3%だった。 この試合の勝者は、敗者の保持していた王座を獲得することで、WBA・WBCの2つの団体の王者となる。このように複数の団体の王座を同時に保持する王者は統一王者と呼ばれる。通常、統一王者は各団体の中では課せられる義務などの規定上、正規王者と同様の扱いとなるが、WBAと他団体の統一王者はWBAにおいてはスーパー王者として認定され、正規王者とは別に規定される。WBAのスーパーバイザー(立会人)であるアラン・キム(韓国)は6月18日の時点で、この試合の勝者は通常通りスーパー王者となると話していたが、試合前日の6月19日にJBC事務局長の森田健は、この統一戦がWBAおよびWBCの認可を受ける際に、勝者は10日以内にいずれかの王座を返上し、スーパー王者の認定は受けないという取り決めがあったことを説明し、これを否定。井岡も八重樫もそれぞれの団体の王者として2012年夏までに規定通りの指名試合を行う義務があり、勝者が統一王者となった後に両団体の指名試合をいずれも期限内に消化することは困難であることから、いずれかの団体の王座を返上することで、もう一方の団体からは指名試合の期限延長を許可される見込みであった。 JBCは両陣営に対し「統一戦の勝者は10日以内にWBA・WBCどちらか一方の王座を返上すること」という取り決めを示すとともにスーパー王者の条件は満たさないことも伝え、キムは承認の経緯を把握していなかったことを謝罪した。両陣営のプロモーターは、大橋秀行が「試合を実現することの方が大事だった」と話し、井岡一法も「もともとどちらか返上するつもりだった」と動揺を見せることはなかった。
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