日本初の濃縮ウラン製造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 08:59 UTC 版)
翌1956年(昭和31年)に原子燃料公社が設立され、8月に人形峠出張所を開設してウラン鉱の調査開発が始まった。当時、ウランの精錬技術については国外の情報が公開されていたものの、日本国内には実際の技術は確立されておらず、基礎的な研究から実務的な工程までが行われた。1959年(昭和34年)には人形峠産のウラン鉱石を基に、茨城県の東海村の施設でイエローケーキの精錬にこぎつけ、1961年(昭和36年)には日本初の国産ウラン200kgの製造を実現した。1964年(昭和39年)になると、人形峠に山元試験製錬所が建設し、ウランの採掘から精錬までの技術研究が行われた。ここで初めて製造した塩化ウラニルは茨城県の東海村の施設へ運ばれた。 1974年(昭和49年)に、ウラン鉱石からイエローケーキを経ずに四フッ化ウランを精製する「一貫精錬方式」の開発に成功し、1979年12月には、日本初の国産濃縮ウランの生産を行った。 この間、原子燃料公社は動力炉・核燃料開発事業団(動燃)に発展し(1967年(昭和42年))、人形峠の施設は人形峠鉱業所となった。さらに鉱業所は1978年(昭和53年)に人形峠事業所に改称している。1980年代になると、核燃料サイクルの技術研究がすすめられ、回収ウランの転換試験が行われた。
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