日本初の人工衛星打ち上げ
1962年のカッパ8型落下事故で打上げ場所は鹿児島・内之浦に移転
国際地球観測年(IGY)への参加を無事に果たした日本の次の目標は、人工衛星の打ち上げでした。そのための課題は、「衛星を軌道に乗せるだけの高度の実現」と「打ち上げ場所の確保」でした。しかし実験を進めるなかで、1962年5月、秋田県道川でカッパ8型ロケット10号機が打ち上げ直後に落下して破片が飛び散り、付近の集落を巻き込んで火災が発生する事故が起きました。さいわい負傷者はなかったものの、これをきっかけに、打ち上げ場所を鹿児島県内之浦に移転。1964年には東大生産技術研究所ロケット班と航空研究所が合併して「宇宙航空研究所」が設立されました。
鹿児島県内之浦にある宇宙空間観測所。1970年2月、わが国初の人工衛星「おおすみ」が打ち上げられていました。
「ラムダロケット」で初の人工衛星「おおすみ」打ち上げ
しかし、ラムダ3型ロケットで高度1000kmも実現し、順調なすべりだしと思われたとき、分離機構の作動不良でラムダ4型は失敗をくりかえします。射場としての内之浦も地元漁協との交渉が難航したすえ、1968年にようやく妥結。1970年2月11日、4回の失敗を乗り越えてラムダ4型5号機の打上げがようやく成功。その最終段が地球周回軌道に投入され、ついに日本初の人工衛星「おおすみ」が誕生したのです。これにより、日本は世界で4番目に人工衛星を自力で打ち上げた国となりました。
当初の「風まかせ」から次の世代をになうまでに成長した「ミューロケット」
K(カッパ)、L(ラムダ)に続くM(ミュー)ロケット、M-4Sの1号機が打ち上げられたのは、1970年9月。このころのミューには誘導制御装置がなく、打ち上げたら最後、軌道修正はいっさいできないために「風まかせのロケット」と呼ばれることさえあるくらいでした。その後、M-SH、M-3Sと改良を重ねるにつれ、エンジンも3段式となり、推力方向制御装置を搭載して、打ち上げ能力も290kgに達し、初期の汚名を返上するにいたりました。そして1985年、全長27mのM-3SIIが、ハレーすい星探査機「すいせい」の打ち上げに成功。固体燃料ロケットによる重力圏脱出としては世界初の快挙を成し遂げました。その後、X線天文衛星「はくちょう」「ひのとり」「ぎんが」、オーロラを観測した「あけぼの」、スイングバイ技術の獲得に成功した「ひてん」など、ミューロケットが打ち上げた衛星は20以上にも上ります。
「M-V」は、世界最高の科学探査衛星用ロケット
1997年2月12日、究極のミューといわれるM-Vロケット1号機が、内之浦から打ち上げられました。このM-Vロケットは、3段式で全段固体燃料ロケット、直径2.5メートル、全長は30mを超え、打ち上げ能力1.8tという巨大な機体をもちます。この日打ち上げられた衛星「MUSES-B」は、その後「はるか」と命名され、大型展開アンテナを使った天体観測をおこなっています。また、M-Vロケットは1998年には火星探査機「PLANET-B」(「のぞみ」と命名)を打ち上げています。ミューロケットM-Vは、世界最高の科学探査衛星用ロケットとして、21世紀の宇宙科学をになう存在となることでしょう。
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