米国の技術供与
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/26 07:43 UTC 版)
東大は1969年(昭和44年)にロケット打ち上げを再開し、一度の失敗を経て1970年(昭和45年)2月に日本初の人工衛星おおすみの打ち上げに成功した。一方、事業団の実用液体ロケットエンジンの開発は遅れ、予定までに人工衛星を打ち上げられない可能性も出てきた。そこで事業団は、東大のロケット輸出以来、日本のロケット開発に介入する機会をうかがっていて1967年(昭和42年)以降の対日ロケット技術供与の可能性を示唆していた米国と協定を結び、平和利用と輸出禁止を条件に技術供与を受けることになった。技術格差から日本側に不利な条件での協定となったが、おおすみの成功によって自力での衛星打ち上げが可能であることを証明したため、米国もかなり譲歩することとなった。 この協定によって事業団は独自ロケット開発計画であるQ計画・N計画を諦め、米国の技術供与とライセンス生産によって技術を習得する新N計画を進めることになった。そして新N計画の第2段用エンジンに使用されるLE-3の実証実験を兼ねたETVロケットの打ち上げ成功の後に、1975年(昭和50年)9月に日本初の人工衛星打ち上げ用液体燃料ロケットのN-Iロケットの打ち上げに成功した。後継機のN-IIロケットまでの17基は米国の技術を中心に開発され、あやめとあやめ2号以外の全ての衛星の軌道投入に成功した(あやめはロケット側、あやめ2号は衛星側の失敗)。続くH-Iロケットでは第二段に独自開発の国産エンジンLE-5を採用し国産化率を高めた。
※この「米国の技術供与」の解説は、「宇宙開発事業団」の解説の一部です。
「米国の技術供与」を含む「宇宙開発事業団」の記事については、「宇宙開発事業団」の概要を参照ください。
- 米国の技術供与のページへのリンク