米国の政策転換
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 16:17 UTC 版)
日本政府は原子力の開発に着手して以来、積極的に核不拡散に協力するため、国際原子力機関に発足当初から加盟し保障措置と査察を受け入れてきた。しかし1974年インドが核実験を成功させた。1977年に成立したアメリカのカーター政権は、核兵器原料の徹底管理を日本にも求めてきた。日本政府は、アメリカの新たな不拡散措置政策には協力の姿勢を見せ、核拡散の恐れのある国に対して原子力技術を供与しないことを柱としたロンドンガイドラインについても、アメリカと一体となって整備した。一方で、核拡散防止条約の批准に際しては、国内産業界より民生利用にも支障が生じる旨の批判が噴出し、自民党内には核武装への阻害要因として懸念する向きもあったため、署名は1970年になされたものの、批准は1976年までずれこんだ。 また、カーター政権は不拡散措置の一環として1977年4月、自国内の再処理を無期延期を決定し、1974年10月に完成し試験中であった東海村の再処理工場についても日米原子力協定第8条C項を根拠に、そのホット試験の中止を求めてきた。日本政府は1977年中に米政府と交渉を行い、プルトニウムを単体抽出しない混合抽出法を採用することによって操業再開の合意を取り付けた。カーター政権はその後も2年半にわたり国際核燃料サイクル評価を実施したが、事実上西側原子力先進国の再処理を追認する結果となった。
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