日本の製糸業とは? わかりやすく解説

日本の製糸業

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/05 02:17 UTC 版)

製糸業」の記事における「日本の製糸業」の解説

信州製糸三大明星とされる初代片倉兼太郞(左)、尾澤金左衞門中央)、林國(右) 日本では弥生時代大陸から絹作り伝来した考えられており、江戸時代には東北地方信濃国上野国甲斐国などにおいて養蚕業製糸が行われていた。 江戸幕府横浜などを開港した安政6年1859年当時ヨーロッパ諸国微粒子病による打撃受けていた。日本産生糸中国産生糸に劣らぬ品質を持つものとして評価されたため、生糸生産明治期にかけて日本輸出貿易の中心となった八王子から輸出用生糸横浜へ運ぶ神奈川往還は“絹の道となった甲斐国在方出身甲州屋忠右衛門川手五郎右衛門地元物産外国向けに売り込む投機商も出現したこうした近世都市町人を中心とする商人層に対し幕末から明治初年には在方出自をもつ豪農層が成長し明治後年には地方商人地主階層次々と製糸業創業した明治10年代には長野県山梨県岐阜県中心とする東日本中心に生産が行われた。 製糸業明治政府殖産興業主力として国策的に振興された。民間での創業促すため、原料購入資金融資を行う地方銀行高利貸しには政府からの政策的融資が行われ、原善三郎茂木惣兵衛生糸売込商台頭する明治政府生糸増産と、ヨーロッパからの導入した製糸技術吸収普及のため、官営製糸場も設けた明治5年1872年)につくられ富岡製糸場フランス式蒸気動力繰糸機などを動かし現存する施設世界遺産登録され著名である。翌1873年には東京都心部に、水車を使うイタリア式葵町製糸場(現在の虎ノ門)を開設した葵町製糸場は数年稼働したのみだが、笠岡製糸場(岡山県笠岡市)のモデルとなり、近代製糸業西日本への伝播役割果たしたとみられている。 日本産生糸主な輸出先当初フランスで、後に絹織物産業急速な発展遂げたアメリカ合衆国へ移った明治後年にはイタリア中国をしのぐ輸出量を誇った。 日本の製糸業ははじめ、座繰式の製糸機械普及し生糸生産行っていた。イタリアフランスから器械製糸技術導入されると、富岡製糸場など各地導入進んだ。日本の製糸業者の多く10人繰以上30人未満中小規模業者中心で、高価な鉄製繰糸器械導入は困難であったため、フランス・イタリア式を折衷した木製繰糸器械(諏訪繰糸機)も発明された(武居代次郎)。また、製糸工場では寄宿制と低賃金劣悪な労働環境で働く製糸女工存在していたことも当時から指摘され、『あゝ野麦峠』などで描かれた。一方で過酷な農作業からの解放高収入得られともされる

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