日本の製塩法の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 08:20 UTC 版)
「塩の製法#日本」も参照 日本の塩田は、歴史上すべてが前述の採鹹をおこなうためのもので、煎熬(せんごう。煮詰めること)して塩を得るための釜があわせて設置された。海岸に設けられたこれらの施設は、古くは「塩浜」と呼ばれた。日本語における「塩田」という言葉は、明治以降、登記上の地目として塩浜を「塩田」といったことに始まる。 成立期には、日照時間が比較的長い地域(瀬戸内地方や能登半島など)で大きく発達した。古くは農家の余暇の副業として自家労働によって行われ、煮詰め用の製塩釜は多くは共同使用であった。次第に需要が拡大し、事業規模が大きくなってくると、製塩は専業化し、やがて一軒前とよばれる一貫生産体制を導入する大手業者が出現した。そのような業者のもとでは、「釜屋」という鹹水を煮詰めるための専門施設が塩戸(作業単位)ごとに1戸付属した。 技術の進歩にもかかわらず、気温が低く日照時間の短い冬場などにおける大量生産は長らく困難であったが、枝条架装置(後述)の開発によって天候や季節、自然現象などにある程度は左右されなくなった。1970年代からは、イオン交換膜を用いた電気機械による製塩が主流になり、現在に至る。
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