日本の補助貨幣の歴史
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江戸時代において、1765年に鋳造された五匁銀は、元文小判に対し12枚の固定相場制を意図したもので事実上の金銀複本位制(金銀比価1:11.48)であったが市場では敬遠され流通しなかった。1772年に鋳造された南鐐二朱銀は元文銀より額面に対し純銀量が約25%減量されており小判に対する事実上の補助貨幣(定位貨幣)であった。しかし御触で補助と規定されてもなければ通用制限額が設定されたわけでもなかった。 明治4年5月10日(1871年6月27日)公布の新貨条例では本位金貨の他に50銭以下の貨幣が定められたが、この法令の文面では「定位ノ銀貨幣」および「定位ノ銅貨」(後に「銅貨」と修正)と定められ、さらに「定位トハ本位貨幣ノ補助ニシテ制度ニヨリテ其価位ヲ定メテ融通ヲ資クルモノナリ故ニ通用ノ際コレカ制限ヲ設ケテ交通ノ定規トス」と明記されている。この新貨条例は明治8年(1875年)6月25日に「貨幣条例」と改められて公布され、「補助ノ銀貨」および「補助ノ銅貨」の表記となった。補助銀貨の通用制限額は金種の混用に拘りなく一回の取引につき最高額で十圓、銅貨は同様に一圓とされた。 明治4年当初は、50銭以下の銀貨は1圓銀貨より額面に比して量目・品位共に削減されていたが、明治6年から量目は額面比例、品位のみ下げる改正となった。 明治30年(1897年)10月1日施行の貨幣法においては、本位金貨の他に50銭以下の銀貨幣、白銅貨幣および青銅貨幣が定められ、これらにも法貨としての通用制限額が青銅貨、白銅貨共に金種の混用に拘りなく一回の取引につき最高額で一圓と定められた。白銅貨については大正9年(1920年)から通用制限額は五圓に引き上げられた。1906年、1918年および1922年には銀価格の高騰から補助銀貨の量目削減の改正が行われた。 昭和13年(1938年)6月1日施行の臨時通貨法では政府は貨幣法に定めるものの他に臨時補助貨幣を発行することが可能となり、これ以降発行される硬貨はすべて通用制限額が定められた臨時補助貨幣となった。臨時補助貨幣は十銭および五銭が五圓、一銭が一圓まで法貨として通用すると規定された。五十銭黄銅貨幣の通用制限額は十円までとされ、以降追加された円単位の臨時補助貨幣の通用制限額はすべて額面の20倍に定められた。 昭和63年(1988年)4月1日施行の通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律では、本位貨幣が廃止され一部の臨時補助貨幣のみが同法律に基づいて発行された「貨幣」と見做されることになり引続き通用力を有したのであるが、本位貨幣の廃止に伴い名目上「補助」は意味を成さないものとなり、同法律により「貨幣」と称されることとなった。このため現在、日本円の硬貨は「貨幣」とは称するものの、この法律施行以前に発行されていた、臨時補助貨幣の様式および法定通貨としての通用制限を事実上そのまま踏襲したものであり、補助貨幣的な性格を有するものである。 さらに、同法律では附則において、その他の法令の条文に従来「補助貨幣」とあったものも「貨幣」と変更されることが規定され、「補助貨幣」は法令から姿を消した。 附則第13条 造幣局特別会計法の一部改正 「補助貨幣回収準備資金」を「貨幣回収準備資金」に改める。 「補助貨幣製造事業予定計画表」を「貨幣製造事業予定計画表」に改める。 「補助貨幣製造事業実績表」を「貨幣製造事業実績表」に改める等。 附則第14条 「補助貨幣損傷等取締法」を「貨幣損傷等取締法」に改題する。
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